ラモーンズ・ファンなら知らない人はいない『ROAD TO RUIN』のカバー等でお馴染みのPUNKマガジン編集長兼イラストレーター、ジョン・ホルムストルム氏が初来日。ラモーンズがCBGBでプレイしていた70年代を語ることのできる貴重な人物のEXCLUSIVEインタビュー!! ラモーンズ・ファン必見の内容をお届け致します!!

●お会いできて嬉しいです。とうとう会えました。ラモーンズ・ファンにとって、あなたは大切な存在です。初来日ですよね? 日本の第一印象を聞かせてください。


──ジョン:こちらこそ会えて嬉しいよ。日本は大好きな国だよ。自分は一番初めのラモーンズ・ファンだと思っている。本当に彼らのことが好きで、ラモーンズに会いたい、ラモーンズについて書きたい、という思いが募って雑誌を始めたんだ。編集者として初めてインタビューした相手もラモーンズだった。

●そのインタビューはどこでしたんですか?

──ジョン:ニューヨークだよ。雑誌編集を始めて最初にラモーンズのインタビューをとった。その時はジョニーとトミーに。2人ともジョーイとディーディーには何も言わせなかったからね(笑)

●今もニューヨークに住んでいるのですか。

──ジョン:そう。1977年からずっと同じアパートメントで暮らしているんだ。(手元にあるイラスト『ロケット・トゥー・ロシア』のアルバム・ジャケットを指差しながら)この頃稼いだお金で、アパートメントの前金を払ったんだよ。

●最初に好きになったパンク・ミュージシャンは誰ですか?

──ジョン:アリス・クーパー。

●本当に?

──ジョン:ああ。ジョーイと仲良くなったきっかけでもあるんだ。ジョーイもアリス・クーパーが好きだったから。

●いつ頃のことですか?

──ジョン:1976年の1月か2月のこと。パーティーで会ったときに、ジョーイが同じ質問をしてきたんだ。ぼくが「アリス・クーパー。」って答えると、「俺も。」って

●へぇ、そうだったの。

──ジョン:実際、アリス・クーパーが陰でパンク・ロックに与えた影響はすごいよ。ジョン・ロットンが、オーディションでアリス・クーパーの歌を歌ってセックス・ピストルズのメンバーになったことは有名だよね。でもアリスがそれを自覚していたとは思えないけど。

●あなたもニューヨーク生まれですか?

──ジョン:いや。ニューヨークからは100マイル程離れたコネティカットの街出身だよ。

●北上した辺り?

──ジョン:そう、そして少し東に行った辺りだよ。

●いつ頃ニューヨークに出てきたんですか?

──ジョン:1972年。マンハッタンの23rdストリートにあるスクール・オブ・ビジュアル・アーツに入学したんだ。

●知っています、そこ。大きな学校ですよね?

──ジョン:有名な学校で、ブロンディーのクリス・スタインや、タフ・ダーツのジェフ・セイレンもその学校で学んでいた。それに、フレッシュトーンズのピーター・ザレンバとはクラスメイトだよ。当時、俺たちは二人ともラモーンズ・ヘアーだったよ。

●ワオ!面白そうなクラス!

──ジョン:その学校のソーシャル・ディレクターは、俺が出会った最初のパンク・ロック・ファンの1人だった。パーティーの企画や主催をしていた人で、俺たちはいつも彼女から「ドールズなどのグラム・ロック・シーンに行け。」って言われていたよ。パンク・ロックが流行る前、スクール・オブ・ビジュアル・アーツにはニューヨーク・ドールズのファンがたくさんいたからね。

●あなたもニューヨーク・ドールズが好き?

──ジョン:大ファンだったよ。

●アリス・クーパーとニューヨーク・ドールズではどちらが好きですか?

──ジョン:アリス・クーパーは1972年から1973年あたりが一番良かったし、ニューヨーク・ドールズが話題になったのはその後ぐらいだよね。ラモーンズやディクテイターズはその後に続く形で。

●ディクテイターズは好きですか?

──ジョン:ああ、好きだよ。ディクテイターズはラモーンズに大きな影響を与えていると思う。どちらのバンドもカリフォルニア・サウンドをカバーしていただろう。1976年頃のことだけど、ラモーンズとディテクターズを比較して記事を書いたことがあるよ。ビートルズとローリング・ストーンズを比較するみたいにして。

●その記事を読んでみたいです。ところで初めて絵を描いたのはいつ頃のこと?

──ジョン:父親がアーティストなんだ。俺がパンク・マガジンを出版したように、親父も自身の第二次世界大戦での経験を描いて自分の本を自費出版している。彼は若いときにアート・スクールに入学し、その後戦争で海外に出たんだ。そして出征先でナチに捕まって、戦時下の捕虜収容所に収容された。それがあの『大脱走』の収容所と同じ場所だったんだよ。映画『大脱走』は観たことがある?

●もちろん。

──ジョン:親父はあの大脱走の計画の記録係りを任ぜられた兵士の1人だったんだ。

●ええーびっくり!! すごいね。あの映画は本当に大好きです。

──ジョン:俺も。家族で映画を観に行って、「ここが親父がいた捕虜キャンプだよ。」って聞いて。その後、親父に「どんな様子だったの?」って聞いたよ。とにかく、彼はその捕虜キャンプの中での様子を隠れてスケッチして、退役後イラストやカトゥーンにして出版したんだ。当時の様子をウェブサイトにアップしてあるから、アドレスを教えるよ。
※ジョンの父、Carl Holmstromのイラスト等で描写した本のウェブサイト http://kriegielife.com/

●ぜひ、お願いします。

──ジョン:そんなわけで俺の家族はずっと絵を描き続けていたんだ。姉貴たちは俺よりもずっと絵が上手だったよ。俺は家族で一番下手くそ。

●冗談でしょ(笑)。

──ジョン:本当だよ。子供の頃は本当にひどかったね。ただ、ずっと描き続けてきたし、スクール・オブ・ビジュアル・アーツでたくさんのことを学んだから。当時あの学校では、ウィル・アイズナーやハーヴェイ・カーツマンなど、素晴らしいカトゥーン・アーティストから直接指導を受けることができた。 ハーヴェイはマッド・マガジンの創始者、ウィル・アイズナーは最近映画にもなったコミック・シリーズ『スピリット』で有名だよね。学校を出た後も、俺は彼らのスタジオでアシスタントとして働いていたんだ。パンク・マガジンを始めたのも彼らの影響があったから。本当にたくさんのことを教えてもらったよ。ウィルは『スピリット』専用のデスクを持っていて、俺はその横で働いていたんだ。

●何歳頃のことですか?

──ジョン:21才の頃。

●すごいですね。日本のアニメ(カトゥーン)については、どう思いますか?

──ジョン:小学生の頃、『エイトマン』の大ファンだったよ。『鉄人28号』や『ジャングル大帝レオ』もテレビでよく見ていたから、日本の影響はたくさん受けているよ。  日本はこのカトゥーンという文化を最初に出版物や映像として発信した国だよね。だから俺は、日本という国は早い時期から「パンク」というものを理解していたと思う。そのことに心から感謝しているよ。  日本はいつもかっこいいよね。キッスやブロンディーのクリス・スタインはいつも日本のブリキのロボットを収集していたよ。俺はあの頃金がなかったから、うらやましかったな。彼らは日本公演の度に買い物しまくっていたからね。

●へぇ。

──ジョン:当時はみんな、日本のカルチャーが大好きだったね。他にも『ゴジラ』も有名だよね。

●ああ、なるほど。

──ジョン:日本はいつも進化している感じだったな。クールだよ。テレビで見ていただけでも、すごい場所だろうなって考えていたよ。

●私は逆にアメリカのキャラクターが好きですよ。あなたが日本に憧れたように、私はアメリカのグッズや音楽に憧れました。ニューヨークに住みたいと思っていたし。

──ジョン:俺が思うには、ニューヨークの時代はもう終わったね。もう今では、クリエイティブな活動をする場所はニューヨークである必要性がないから。もっと安い場所に移ればいいんだ。俺たちが最初にパンク・マガジンのためにオフィスを持ったときは、月に890ドルでここよりずっと広い場所が借りられたんだ。それが今では・・・。ニューヨークは高すぎるって、みんな他の場所に引っ越していくよ。危険だしね。犯罪だらけ。コネティカットに帰ると、「なんでニューヨークに住んでいるの?殺されちゃうよ」って言われる。CBGBの辺りでさえ今では危険だよ。

●パンク・マガジンでインタビューしたアーティストの中で一番印象的だったのは誰ですか?

──ジョン:もちろん、ルー・リードだよ。彼のインタビューは最高だったね。ルーはすごく寛大だったんだ。まだパンク・マガジンが創刊される前で、そんな雑誌は聞いたこともなかったのにインタビューに応じてくれたんだ。しかも、その時はラモーンズのインタビューをする予定でCBGBに行っていたんだ。たまたまルー・リードがいて、頼んだらすんなりインタビューに応じてくれたんだ。すごく面白かったよ。

●いい人だった?

──ジョン:いや、嫌なやつだった(笑)。でもね、パンク・マガジンの創刊号が発行されると、ニューススタンドで雑誌を見た彼の方から電話をくれたんだ。それから一緒に酒を飲んで・・・。実際のルー・リードはすごくいい人だったよ。昔はね。他の人にどうだったかは知らないよ(笑)。でもまあ、彼のイメージも保たなくてはならないから…。

●さて、ここからはラモーンズについて聞かせてください。初めてラモーンズを知ったのはいつですか?

──ジョン:1975年の8月のこと、ヴィレッジ・ヴォイス(N.Y.の新聞)で彼らの記事を読んだんだ。CBGBでのサマーロック・フェスティバルについて書いてあった。ブロンディーやトーキング・ヘッズやテレビジョンも出ていたけど、俺が好きになったバンドはラモーンズ。だって彼らの演奏と言ったら、曲全部が2分の長さで、速くて、うるさくて、頭をぶん殴るみたいな感じだろ。
 それからクリーム・マガジン(アメリカの音楽雑誌)にもラモーンズの記事が載っていた。こちらはファッションについての記事だったけど、俺にとってファッションはとても重要なポイントだった。当時のロック・バンドといえばみんな、けばけばしい派手な衣装でにわとりみたいなヘアースタイルが普通だったけど、俺はそれが嫌いだった。でも、ラモーンズは違った。俺は自分と同じ格好でロックを演奏するやつらを見たかったんだ。

●自分と同じ格好って?

──ジョン:Tシャツにジーンズにスニーカー、普通の髪型ってこと。最初にラモーンズを見たときは「こいつらなら俺も絵にできるよ。カトゥーンみたいなやつらだ。」って思った。特にジョニーはキャプテン・アメリカ(アメリカのコミック・ヒーロー)のTシャツを着ていたから、自分と好みが似ているんじゃないかと思った。それで、彼らに会って、話して、彼らのことをもっと知りたいって思ったんだ。

●1975年から1976年頃の4人はどんな様子でしたか?

──ジョン:ステージが終わったあとのメンバーを、俺はバーの隅の方に座って観察していたんだ。彼らは革ジャンを着て一見恐そうだけど、それがただのファッションなのか、本当に恐いやつらなのか最初はわからなかった。でもやつらが側を通り過ぎた時には、びびったよ。もし彼らへのアプローチの仕方を少しでも間違えたら、きっと尻を蹴飛ばされるだろうなって思った。だって話している内容は、シンナーを吸ったとか、ナチがどうのこうの、とか・・・。マジで恐かった。こいつら本気かよ?それともジョークか?って。まあ後になって、そのどちらでもあったんだと判ったけど。彼らの不良ぶりは確かにマジで現実の一部ではあったけど、決して全てではない、って。

●その後だれと仲良くなっていったの?

──ジョン:ジョーイ。ジョーイと俺は本当に親しかったよ。CBGBではいつも肩を並べて座ってつるんでいた。だれかが俺のところにやってきて「パンク・マガジンの人だよね。記事になりそうなバンドはある?」と聞かれれば、「それならラモーンズだよ。こいつがメンバーのジョーイ。」って言って紹介した。逆に、ミュージシャンがジョーイのところにやってきて「ラモーンズのメンバーだよね。誰かに話しをしたいけど、いいやついないかな。」と言われれば、「それならこのジョンだよ。パンク・マガジンの編集者。」と紹介してくれた。俺たちはパートナーで共犯者みたいだったよ(笑)。
 ジョーイは雑誌に関してもいろいろと協力してくれた。記事も書いてくれたし、実は最初のパンク・マガジンに載せたラモーンズ宛てのファンレターは、ジョーイがファンの振りをして偽名で書いたものなんだ。彼はイラストも描いていたよ。

●ジョーイが絵を描いたの?ディーディーじゃなくて?

──ジョン:そうだよ。

●ジョーイが絵を描けたなんて知らなかった。ディーディーが絵を描いていたのは知っているけど。

──ジョン:ジョーイの方が先だよ

●本当に?

──ジョン:残念に思っていることが一つあって、ある時ジョーイが巨大な鏡にイラストを描いてくれたんだ。でも大きすぎてアパートに置けなくて、今はもう手元にないんだ。

●いつ頃のことですか?

──ジョン:1977年。あの頃はみんなCBGBの辺りにたむろって落書きしたりしていたよ。

●ジョーイはどんな絵をかいていたの?

──ジョン:雑誌に載せていたよ。すごくシンプルで子供が描いたような絵。全くの素人が描いた絵だったよ。ディーディーより下手だったね。(笑)ジョーイは他にも俺の仕事を手伝ってくれた。1976年にイギー・ポップがニューヨークに来た時には、ジョーイが俺たちのことをイギーに宣伝して、インタビューをセットアップしてくれたんだ。イギーもラモーンズも、ダニー・フィールドがマネージメントしていたから繋がりがあっただろ? そのインタビューの時、ジョーイがダニー・フィールドのイラストを描いていて、それに気付いたイギーが「スターの君がイラストを描くの・・・。」ってびっくりしていたよ。発行した雑誌ではジョーイの名前を隠したけどね。ジョーイが違う名前で絵を描いていた話は本にしてみんなに伝えたいと思っている。
俺たちがフォト・コミック『ミュータント・モンスター・ビーチ・パーティー』を制作した時も、彼はすごく協力的に制作に関わってくれた。宇宙人がジョーイをUFOに乗せてバイク野郎の集いに連れて行く場面や、アートゥロ・ヴェガやジョーイの弟のミッキーが登場した他の場面も全てジョーイのアイディアだった。すごく面白くていかしたアイディアだったと思うよ。名場面の1つだね。ジョーイには本当に感謝しているよ。テーマ・ソングの歌詞も書いてくれた。それは後で「ダニー・セイズ」の歌詞として使われている。
ジョーイとは本当にいろんなことを一緒にした。俺がパンク・マガジンをやめてファン雑誌『ストップ』を始めたとき、ジョーイは音楽コラムを担当してくれたし、イラストも描いた。それに音楽プロデュースもしていたよ。ジョーイは当時の俺たちのエージェントの一員だったよ。『パンク・オブ・ザ・マンス(Punk of the Month)』もジョーイのアイディアだよ。

●びっくりしました。

──ジョン:ジョーイとは本当に仲が良かったよ。約10年もの間。

●10年? 期間限定ですか?

──ジョン:10年経ってからは疎遠だったんだ。

●『ロケット・トゥー・ロシア』の絵のアイディアはジョニーのアイディアと聞いていますが、ロシアにロケットを飛ばすっていうのは、当時としては過激だと思いませんでしたか?

──ジョン:ジャケットのロケットはRockの象徴で、ロックをロシアに届けるという意味で素晴らしいアイデアだと思ったよ。

●他の人の反応はどうでしたか?

──ジョン:大丈夫だったよ。ただ、フランスの音楽評論家は激怒していたよ。エッフェル塔が描かれていなかったから(笑)。批判はそれだけ。

●『ピンヘッド』のアイディアは?

──ジョン:全てジョニーが考えていた。小さな黒人も含めて、細かいこと全てを。

●ジョニーはナチ・スタイルなどで批評も受けていますが、彼のアイディアはジョンさんにとって全て受け入れられるものでしたか?

──ジョン:ジョニーの政治的思想は独特だったからね。もちろん俺はあんなに右寄りではない。でも当時の大統領はジミー・カーターだったから。カーターは決して優れた大統領ではなかったから、ジョーイでさえ右寄り保守的な傾向があったよ。

●私もジョニーと20年近く文通をしてきたので、彼がどんな様子だったかはわかります。ジョニーからはファン・クラブの運営を始め沢山のことを厳しく教えられだけど、それにはいつもファンとラモーンズへの愛情たっぷりだったので素直に受け入れましたよ。

──ジョン:確かに彼の態度は時として横柄だったよね。でも俺に対する態度は違ったと思う。コミュニケーション不足から長いこと彼と断絶していた時期もあるけど、俺はジョニーのいろいろな面を理解していた。ジョニーも俺の意見を尊重してくれたよ。例えば、セカンド・アルバムの『リーブ・ホーム(Leave Home)』を出す前、ジョニーは特別に音を試聴する機会を作って俺とダニー・フィールドを呼んだんだ。みんなに発表する前に、俺たちがどう思うかを確かめたかったんだ。バンドが成長して徐々にいろいろな人が関わるようになってその関係は薄れたけど、創世期には俺の意見やアドバイスを尊重してくれていたよ。

●ジョンのイラストはユーモアにあふれてハッピーな雰囲気に溢れていますよね。ラモーンズのスタイルもユニークでハッピーだから、バンドとイラストがよくマッチしていると思います。ご自身ではどう思われますか?

──ジョン:俺もそう思うよ。たくさんの人が俺の描いたカバーを気に入ってくれたのは、ラモーンズと絵が合致していたからだと思う。そもそも俺が最初にラモーンズを観た時、「このバンドこそ俺の描くイラストにぴったりのバンドだ。」って思ったんだから。ただ、アート・ディレクターのアルトゥロは俺の絵が気に入らなかったけどね(笑)

●本当にアートゥロはあなたのイラストが気に入らなかったの?

──ジョン:彼ははっきり「気に入らない。」って言ったよ。俺の絵はあまりに漫画じみているって言って、決して認めなかった。「このレコード・ジャケットはラモーンズのためではなくて、イラスト作家のおまえのための作品だ。」とも言われたよ。アルトゥロは俺の作品が気に入らなかったから、わざわざ違うジャケットを作ってカバーにしたんだ。まあ、気にしてないけどね。どのみち決定するのはジョニーだったけど。トミーも俺と馬が合ったよ。トミーとはずっといい関係で、2日前にも会ったばかり。トミーのことは大好きだよ。

●『エンド・オブ・センチュリー』の中で、ジョニーがトミーのことを「トミーなんかいなくても一緒さ。」と酷いことを言っています。私はそうは思わないけど、ジョンさんはどう思いますか?

──ジョン:確かに演奏においてはそうかもしれない。でも音楽面ではトミーがプロデュースしたアルバムは最高だったし、多くのファンも支持している。「プレサント・ドリームス」はグラハム・グールドマンのプロデュースで発売されたけど、実はトミーがプロデュースして作ったデモもあったんだ。俺はトミー版を聞いてすごく気に入って「ジョーイ、こっちの方がずっといいよ。これをすぐに発売するべきだよ。」って言ったのに、結局ジョーイは「ヒットさせたいから。」と言ってグラハム・グールドマンのバージョンを選んだ。俺の考えでは、トミーが他のアルバムも全部プロデュースしていたら、ラモーンズはもっと売れていたと思う。もしそうだったら全てのレコー・ジャケットを俺が担当したよ。(笑)

●なるほど…。

──ジョン:「プレサント・ドリームス」のレコード・ジャケットは最悪だね。あのジャケットのせいでアルバム自体の評価も落としているよ。音楽は素晴らしいのに。

●私も「プレサント・ドリームス」はベスト・アルバムの1枚に挙げますね。私みたいなオールド・ファンには『イッツ・ア・ライブ』などを聴くとトミーの音はとてもいいし、もっと評価を受けてもいいと思うのですが、ニューヨークではトミーの演奏に対する評判は良くないですよね。なぜニューヨークの人はトミーのことをそんなに酷評するのですか?

──ジョン:同意見だよ。マーキーがバンドに参加した時に、彼がトミーのことを酷評したんだ。でも知っていると思うけど、トミーはもともとドラムをやりたかった訳ではないんだ。バンドの結成期には他にだれも見つからなかったから。彼はドラマーじゃないから、ドラムを好きで演奏していたんじゃない。トミーはラモーンズの中で一番多才だったからその役を引き受けた。ツアーで地方を巡るのは好きではなかったし、彼が本当にしたかったのはプロデュースだった。だから彼はラモーンズを辞める時、プロデューサーとしても解雇されることは考えていなかったと思う。

●では、トミー自身はドラム演奏について酷評されることを自身では気にしていなかったと考えてもいいんですか?

──ジョン:気にしていなかったよ。ジョーイもそうだったけど、トミーはロックンロールやパンク・ミュージックをそれまでのサウンドから変化させて、その音楽性を定義づけようとしたんだ。トミー以前のロック・バンドのドラマーは、ダブル・ベースを入れて、音をたくさん組み込んで、ドラム・ソロを演奏したりしていた。でもトミーは、ただただシンプルなバック・ビートを刻みたかったんだ。他にシンプルなドラムをたたいているやつはいなかったからね。シンプルは悪いことではない。俺のカトゥーンの先生は言っていたよ。みんな最初は細かい部分を描くことにこだわるけど、キャリアを積んでからは細部を切り取って単純化していく。それはトミーが試みたことと同じだ。細かいことを省いてシンプルなサウンドを作る。一般の人はシンプルに演奏するのは簡単だと思っているけど、実は(Joe Jack?)も「ロックンロールをシンプルに演奏することはすごく難しい」って言っている。トミーが目指したことはもっと評価されてもいいと思うよ。

●『ロード・トゥー・ルーイン』のアルバム・カバーはジョニーのアイディアですか?

──ジョン:あれはファンの1人が描いたイラストが元になっている。ジャケットの裏に「アルバム・カバーのコンセプトはガス・マクドナルドによる」って書かれているよ。当時ジョニーがファンからもらったイラストを持っていて、そのイラストのアレンジを誰に頼むべきかって相談を受けたんだよ。俺が薦めたのはコミック・ブックのアーティストのウァリィー・ウッド。彼はとってもいい仕事をしたと思うよ。素人が描いたオリジナルの絵には、トミーが描かれていたんだ。でもこのアルバムからマーキーがバンドに参加していたから描きかえる必要もあった。いろいろなアーティストを使って、アングルを変えたりしてアレンジを加えた。でも俺の意図はなかなか理解されなかったよ。イラストレーションの絵とコミック・ブックの絵はアングルが違う。これはコミック・ブックに使われるアングルなんだ。

●この絵はみんながTシャツにして着るくらい明るい雰囲気ですよね。でもアルバムの内容としては、『ロード・トゥー・ルーイン』はタイトルも破壊的で、バンド自体ドラッグや暗い方に向かっていく時期です。このジャケットの絵が正反対に明るいのは何か理由がありますか?

──ジョン:アルバム名についてはジョニーも「ロックンロールは破壊への道(road to ruin)だから。」って言っていたよ。確かに、当時は彼らの生活も音楽も決してヘルシーな状態ではなかった。ジャケットのイラストとマッチしないのは、単にジョニーのアイディアだからさ。俺も理解できないよ。でもラモーンズに関することは全てジョニーの意見に左右されていた。「14枚のイラストを明日までに仕上げて。」とか、平気で無茶なリクエストをしてきたよ。その上すごく簡単に「これいいじゃん。これにしよ。」って決めてしまうし。(笑)
彼らの中では常にいろんな意見が出ていたから、せっかく良いアイディアを出しても、混乱して結局駄目になるってことが多々あったよ。ファースト・アルバムのカバーも有名な人を雇ってビートルズに対抗するような感じのものを作らせたけど出来上がりはひどかった。それで写真を何度も撮り直して・・・。最後にはみんな知っているようにロベルタによって良い写真がとれて素晴らしいカバーに仕上がったよ。ロベルタ・ベイリーはちょっと話し合いをした後にすぐ写真をとっていたから、あんなにいい仕上がりになるなんてレコードが発売されるまで誰も想像していなかった。

●それもまた貴重な逸話ですね。

──ジョン:ああ、逸話を語りだしたらいくらでもあるよ。例えば最初のシングル・レコード「ブリッツクリーグ・バップ」のカバー・イラストは、俺がフォト・コミックを使って作品にしたんだ。「ハンズ・アクロス・ユア・フェイス」のイラストも俺が描いたよ。

●そのTシャツはかっこよくて当時PVを見てすぐに売ってないか探しましたよ。ところで私がジョニーと知り合ったのは1980年以降ですが、それ以前の彼はあんなに威張っては、いなかったんでしょう?

──ジョン:俺が始めて彼らにインタビューした時に感じたのはジョニーとトミーがリーダーだなってこと。実際、トミーとジョニーがバンドの方針を話し合って決めていた。多くの人が、バンドの問題はリンダだって言うけど、俺はそう思わない。問題は、トミーがバンドを去ったことだと思う。トミーが去ってジョニー1人がボス的な存在になり、ジョーイがそれを嫌がるようになった。ジョニーが全てのことを1人で決めていた。ジョーイは受け身な人間だったけど、ジョニーに対抗するようになった。何か上手くいかないことがあると「それはジョニーが決めたことだから。」と言って…。

●ジョニーが信頼した人の意見はちゃんと聞くという事は私の経験からもわかります。セカンド・アルバムの試聴を頼まれたという先ほどの話しから、ジョニーはあなたのことをとても信頼していたと思われます。ジョニーがあなたに意見を求めるようなことはありましたか?

──ジョン:ああ、俺はバンドと一緒にニュージャージーやコネティカットへのツアーに参加していたけど、移動はいつもジョニーの車の後ろの席だったよ。

●それは、すごいですね。ジョニーは車内にジョニー・シートを設けてなかなか他人を乗せなかったし選んだ人しか側にも座らせなかったですよ。

──ジョン:俺はいつも彼の後ろに座って話しをしていたよ。野球についてとかね。今考えると変だったなと思うけど、俺はジョニーともジョーイとも仲がよかったんだ。当時はリンダのことは何も知らなくて。

●ジョニーは本当にジョンさんのことを信頼していたんですね。とても珍しいことですよ。

──ジョン:俺たちはお互いに信頼していたよ。君もラモーンズのことを愛していただろう。彼と良い関係を持つにはそれがまず大前提だったよね。

●そうです。ジョニーにとって相手が「ラモーンズをどれくらい愛しているか」ってことがすごく大切でしたよ。

──ジョン:ジョニーはみんなにそれを聞いていた。彼は人からどう思われているかってことをいつも気にしていた。だから「お前はどう思う?」って常に聞いてきたよ。それで俺は「ボンゴ・プレイヤーを入れるべきだ。」って言ったことがある。もちろんその意見は無視されたけど。でも彼はとにかく意見に耳を傾けてくれたよ。他にも、バンドが倦怠期だった1982年頃、「同じことを繰りかえさず、何か新しいことをやってみたら。俺もみんなも『ピンヘッド』は好きだけど、そろそろ封印して別のことをしたらどうか。」とは言ってみたけど…。

●今、ディーディーの元妻が書いた『I MARRIED DEE DEE RAMONE : POISENED HEART』を読んでいるのですが、この本によると、1974年から1976年にかけてニューヨークではドラッグがすごく蔓延していてみんながドラッグを使っていたように書いてあるんですが、実情はどうだったんですか?

──ジョン:ハートブレイカーズがドラッグ・ユーザーだったことや、ディーディーがドラッグに苦しんでいたことはみんな知っていた。だけど、俺もジョーイもトミーもドラッグは使っていなかった。ジョニーもドラッグはやってなかったと思うよ。大麻は吸っていたけど、後はビールを2杯飲むだけ。ジョーイは酒飲みでよく一緒に飲んだよ。でもトミーはクリーンだったよ。でもディーディーとコニーはひどかった。

●ディーディーは特別なケースですか?

──ジョン:そう。みんなディーディーのことが好きだったけど、トラブルの元でもあった。いろんな人が手をさしのべたけど、彼は薬から抜け出せなかった。でもヴェラは本当にディーディーを助けようとしていたよ。この本にも書いてあると思うけど、1983年頃、俺がマーキーとディーディーとヴェラと一緒に地下鉄に乗っていた時にディーディーが「ジョン、俺は今、ドラッグを辞めているし、精神科医のカウンセリングも受けようと思っている。本当にクリーンになるんだ。」って言っていた。その時は嬉しかったよ。ディーディーとは昔から一緒に遊んでいたから。彼がコニーと一緒だった頃も。

●コニーって、あの悪名高いガールフレンドだった?

──ジョン:コニーのことは聞いたことがあるだろう? 俺もコニーや他のCBGBに出入りしていた女の子たちに魅了されていたよ。ただ一緒に遊んで、飲んで、キスして…(笑)

●変な質問ですが、ディーディーは本当にニューヨークの53rd ストリートに本当に立っていたの?

──ジョン:ああ、立っていたよ。彼も認めている。『REAL MAN』ていう本が1977年頃に出ているよ。

●それはお金やドラッグのためだったんですか?

──ジョン:そうだよ。俺も53rdストリートで見たことがある。明らかにそういう場所だったよ。若い男の子がたむろしていて。当時CBGBにいた男たちはほとんどが貧乏で、女の子はたいがいストリッパーだった。男たちはドラッグを買うお金なんてもっていないから、ストリッパーのガールフレンドたちが買ってあげていた。ストリッパーの稼ぎは当時で1日200ドルぐらいあったから。まあそんなもんだったんだよ。

●もう一つ変な質問ですが、リンダとジョーイは良いカップルだったんですが。

──ジョン:俺は昔リンダとジョーイと一緒に遊んでいたよ。実はまだどこにも公表していないけど、本にしようとしている話しがあるんだ。ジョーイがロックンロール・ハイスクールのインタビューをして写真も撮ったんだ。ジョーイが撮った写真にはジョニーもリンダも写っているよ。あの頃、俺はよく2人と一緒にいたけど、ジョーイはリンダといた時、本当に幸せだった。それから、ジョーイの弟ミッキーとが書いた本『I SLEPT WITH JOEY RAMONE』を読んで知ったんだけど・・・。

●その本はまだ日本では未発売ですが、もう読んだのですか?

──ジョン:俺はミッキーと友達だから発売前にコピーをもらったんだ。その本にはリンダがCBGBのメンバーにミルクとクッキーの差し入れをした話しなんかが書かれているよ。ミッキーの本はすごく良い本だ。ヴェラのことはすごくいい娘だと思うけど、その本には、たいしたことは書いていない。

●どうしてヴェラの本は良くないの?

──ジョン:良くないとは言っていない。ただラモーンズの本としては面白くない。ミッキーのストーリーは家族の話だからとても興味深いよ。

●日本ではラモーンズのインフォメーションを得るのが大変なんですよ。だから本のストーリーのクオリティーとは関係なく何でも読みたくなるし、つまらない事、知らない事もゲット出来ておもしろいですよ。

──ジョン:ヴェラはとてもいい人だよ。ディーディーのことを支えていたしね。

●貴重なお話しをうかがえて夢のような時間でした。本当にありがとうございました。

──ジョン:俺も楽しかったよ。

●最後にファンクラブ宛てのメッセージをここにお願いします。

──ジョン:わかった。なんてメッセージを書こうかな?

●ラモーンズのファンに向けてなんでもいいですよ。イラストも描いてくれたらさらに嬉しいです(笑)

──ジョン:(ジョンが「ドント・パンク・アウト!(パンクを忘れるな!)」と書く)実はこれはジョーイの言葉なんだ。デビューアルバムが発売された時、イーストヴィレッジのレコード屋でラモーンズのサイン会があったんだけど、数人しか来なかったんだ。俺もアルバムにメンバーのサインをもらったんだけど、その時Joeyがサインに加えて俺だけに個人的なメッセージとして「ドント・パンク・アウト!(パンクを忘れるな!)」と書いてくれた。それ以来、俺もこの言葉を使っているんだ。このメッセージはジョーイからだよ。

●う……泣けてきた。どうもありがとう。

──ジョン:ジョーイと俺がどんな深いつながりがあったかわかるだろう。ジョーイは本当にパンク・ロックを愛していた。他の人たちがどのくらいパンク・ロックについて確信していたかはわからない。彼らは自分たちのことをパンク・ロッカーとは呼ばなかった。1983年までは。セックス・ピストルズがパンクだって言っていた。俺はダニー・フィールドの方針が間違っていたと思う。スタジオ作業も…物議をかもしていた。ダニーはラモーンズの音楽性を高く評価していなかったよ。俺は今でも彼らの真の評価のために働いている。

●同感です。貴重な素晴らしい話を沢山聞けて感動しました。本当にありがとうございました。

──ジョン:君はジョニーの友達ってことは、ぼくの友達ってことだよ。ジョニーをよく知っている人に、初めて来た日本で出会えて俺も光栄だよ。

★★

ジョン・ホルムストロム氏のHP http://www.johnholmstrom.com
商品に関する詳細はコチラ。
モリソン商会 http://www.morrison.co.jp
ルーディーズ http://www.rude-blog.com

インタビュー / FCスタッフ:カイチョー・ユキ(yuki kuroyanagi)
取材場所 / 東京・下北沢にて(2009年9月)
写真 / Sumie(Interview Photo)、写真(モリソン商会提供)
翻訳 / 横山 多佳子
通訳 / 茂垣 征信(モリソン商会)
協力 / モリソン商会、RUDE GALLERY


テキスト及び写真 : 畔柳ユキ / Ramones Fan Club Japan (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN
ALL TEXT & Photos by (c)yuki kuroyanagi & (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN

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