今から12年前の2002年に、ここ日本でDEE DEE RAMONEが曲を提供し、日本のバンドが演奏した作品がCDとしてリリースされたことを覚えているだろうか? バンド名はBefore Christ Butterfly(ビフォア・クライスト・バタフライ)。当時ブースター・ドラゴンというプローモーターを運営しながら、ミクスチャーのラウド・ロック・バンドのリーダーだったビリー(vo/g)のバンドである。彼が当時ソロのDEE DEEを日本に呼んだ人物。DEE DEEに楽曲を提供して作品を作ったものの、パンク・バンドとはかけ離れた彼らに周りの視線は厳しく、当時この作品を真っ当に評価してくれる状況はほとんど無かったという。10年以上経った今だからこそ語れるDEE DEEとビリーの短くも深い関係。作り物ではない日本独占ストーリーをお楽しみください。




ーー(インタビューを開始しようとスタジオのソファーに座ると)このベースがDEE DEEが来日した時に初台のリハーサル・スタジオで使ったベースなんですよ。練習の時にこれしかなくて、DEE DEEが「何でもいい」って言って、このベースを使ってこのCDの“BUGMAN”とか“SHEENA IS A SURF PUNK”を作ったんです。

●ドアを開けてこれ見た瞬間に、DEE DEEが使ったベースなのかなと思ったよ。いきなり答えからスタートだね(笑)。まずはDEE DEE RAMONEとの出会いから教えてくれる?

ーー丁度、2002年の秋に当時活動していた自分のバンド「BEFORE CHRIST BUTTERFLY」が海外でのリリースやレーベル展開を考えている時期だったんですよ。それもあって、その時LAやアメリカのシーンに詳しい奴が手伝いたいと言ってくれて、会社(ブースタードラゴン)を立ち上げるって話になって、話をもらったのがDEE DEE RAMONEかザック・ワイルドだったんです。

●へ〜。

ーー当時やっている音楽はどちらかというとゴリゴリのメタルだったんだけど、俺の中ではザックよりDEE DEE RAMONEという人がリアルに自分の中にあったんです。

●当時のビリー君たちはマシーンヘッド風というか、ミクスチャーとラウド・ロックというか。ザック・ワイルドの方が似合うような音だしてたよね。

ーーどっちかというとそうなんだけど、やっぱりDEE DEE RAMONEというアーティストに凄い興味があったし、RAMONESのカウントも彼から生まれた物だし、PUNKというワードをいっぱい持っている人だったから、会ってみたかったんです。だから出来るなら第一弾にDEE DEEを呼びたいなあと思ってた。俺からすると当時は(プロモーターの)SMASHがずっとラモーンズを呼んでいて、DEE DEEのソロも東芝EMIからリリースされていたのに、どうしてDEE DEE RAMONEを呼ぼうとしないのかが不思議だったんですよ。あんまり業界の内部事情とか分からなかったし、ドラッグや色んな問題を抱えてたからいろいろあるのかなとか。でも俺たちでDEE DEE呼べるんだったら呼びたいってなってなったんです。

●なるほど。

ーーそれで来日話はどんどん進んで決まった。これが2001年。JAPAN TOURという事で6公演決めました。神戸チキンジョージ(1月26日)がスタートで大阪、名古屋。東京が原宿アストロ・ホールが2デイズ。でも1月25日に関空にDEE DEEを迎えに行って(搭乗口から)出てきた瞬間はね、もう何て言ったらいいんだろ?人間に見えなかったんですよ。

●(笑) 何に見えた?

ーーRAMONES って日本公演も見てるんだけど、あんなに背が大きいとは思わなくて。JOEYはデカイって分かるんだけど、DEE DEEも190センチ近くあった。実際、俺(177cm)より頭一つ大きかったからビックリした。まず、その印象が強烈だったな(笑)。

●リアルだね。第一印象って、実際に見た人じゃないと語れないもんね。

ーーとにかく、それでドキドキしちゃって、もう本当にロックスターを見ている感じだったんですよ。それでホテルに着いて日本側のTOURのクルーやバンドのメンバーも含めて30人位いて、ホテルのロビーでツアーのミーティングがあったんですがDEE DEEと俺は一番離れた所に座っていたんです。でも何かジーっと緊張している俺を見るんですよ。俺もDEE DEEを見ながら金髪で短髪でカッコ良いなーとチラッ見るんですけど、DEE DEEは目線を外さず見てるんすよ。

●一目惚れしたつき合う前の恋人みたい(笑)。

ーー(笑) そしたら、いきなりトコトコと真っすぐ俺の所に来て「お前は何者だ」って言われて。「俺はロックバンドをやっていてシンガーでビリーっていうんだ」って言ったら、「そうか、ビリー。よろしくな」と言ってくれて、「お前シンガーなら明日から(TOUR)で俺と歌ってくれ。歌うべきだ」って言われて、「あとで俺の部屋に来い。何を歌う?」ってその場で聞かれたんですけど、俺は歌うどころか握手するのも目の前に行くのもドキドキしているのに歌うなんて絶対ありえない。
何かこの人って凄いノリを持っている人だなと思って。あれだけ人がいる中で真っ先に迷わず自分の所にパーって来てくれたっていうのは何か感じるものがあったのかなと。お互いに、あの時凄く思って、凄く大げさだけどその時にちょっと運命的なものも感じて。

●でも作り話でもなく実話だからそう感じてもいいよ。それにしても本当に一目惚れだね(笑)。

ーー結局俺、その呼ばれたホテルの部屋に、緊張して行かれなかったんですよ。

●あれ、そうなの?

ーーそう、行かなくて次の日からDEE DEEと俺達のツーマンでTOURが始まり、COVER曲を何かやろうってなって、RAMONESの「サイコ・セラピー」と「電撃バップ」をLIVEでやったんです。あとでスタッフから聞いた話なんですけど、俺達がRAMONESの曲をアレンジして全然RAMONESがやっている感じじゃなくて、HEAVYな音でやっていてDEE DEEが、「こいつらRAMONES好きなのか?嬉しいよ」と喜んでくれて初日の神戸は何事も無く無事に終わったんです。翌日の大阪ミューズホールで公演前に控室に呼ばれて「今日はお前が俺をステージに呼び込む紹介をしろ」って言われて。DEE DEEが登場する前に紹介をしたんですよ。お客さんもウオーと盛り上がってくれてひっこもうかと思ったら、バッと腕を掴まれて、「お前、どこに行くんだ。歌うんだよ」って引っ張り出されて、そこでいきなり1.2.3.4.で「電撃バップ」が始まり、歌わされたんですよ。

●ハハハ。凄いじゃん。

ーー今はこうやって話してられるけど、とにかく、当時は頭が真っ白になっちゃって歌詞が全く分からなくなっちゃって。

●ビリー君はヴォーカルだから、場馴れしているって思ってたけど、そんなに緊張したりするもん?

ーー歌えって言われた時は嬉しくて感激しちゃって、極度の緊張で頭が真っ白になりましたね。その時覚えていた歌詞が全部飛んじゃって分からなくなって。めちゃくちゃのビリー語で歌った(笑)

●ビリー語(笑)。でも、これは今だから語れる感じでおもしろいね。ビリー君が緊張してたのか。普通の人から見たらタトゥも入って恐い人みたいな感じだと思うんだけど、実は繊細で、今こういった昔のことを語ってもらえていい機会だなあと思いながら聞いてます。2回目にDEE DEEに会うのはいつ頃になるの?

ーー2月1日にツアーの最終日が終わって、実は当時の同じ2月に俺たちのバンドがL.A.でRATTのホアン・クルーシェのプロデュースで1stフル・アルバムのレコーディングがあって、L.A.のトルバドールっていうライヴ・ハウスでDEE DEEのソロ・ライヴがあって、楽しみに行ったんですよ。チケットも全て完売していて満員だった。DEE DEEのソロなのに、楽屋に行くとKISSのドラムはいるし、THIRD EYE BLINDのアライオンはいるし、とにかく色んな超有名なVIPが居ましたよ。

●NYからLAに移り住んだばかりの頃かな。ソング・ライターだし、愛されキャラだもんね。 

ーー控室で再会して「おー久しぶり」と普通に接してくれて「元気か? 今日もお前は歌うんだ」ってまた言われて(笑)「いや、無理だよ!見に来てるだけだから」と断った。そんなモードじゃないのに、ましてやDEE DEEに会うのも2回目で、まだDEE DEEに対して免疫もついてないのに。

●免疫(笑)それで歌ったの?

ーー「日本で歌った電撃バップを歌えば良いんだ!だって歌えたじゃないか!だからここでもお前に歌って欲しい」って。「いやいや、いい!無理」って言ったんだけど、「とにかく俺が呼ぶから出てこい!」って言われて「日本から凄いパンク・ロッカーが来たぜ。ビリー!!」って紹介されて、「電撃バップ」を歌いました。

●凄い体験したね。

ーー「ウオー」とPUNKS達も盛り上がってくれてました。楽屋に戻るとKISSのドラマーとか皆がハグしてくれたり。

●LAで、ますます交友関係は深まった感じ? 他にもエピソードはある?

ーー話が日本に戻っちゃうんだけど、ツアーのファイナルが終わった時に、新宿LOFTのBARで打ち上げになったんですよ。そこでDEE DEEから「お前にプレゼントしたい物がある」って言われて「世界に1個しかない」って出してくれたのがDEE DEEが楽器屋に作ってもらった白いギターで「これで作曲しろ」とくれたんです。でもその時そばに居たDEE DEEの(悪徳)マネージャーに「これは、お前が持つ物じゃないし、作った人が知ったらDEE DEEが怒られるから、俺から後でDEE DEEに返しておく。俺から言った事は言うなよ」って持って行っちゃったんです。俺もDEE DEEが悪く言われるのは嫌だし。そしたらそのマネージャーが後で売ったという…(笑)。もうひとつ思い出したんだけど、DEE DEEが日本で必ず食べていたのがナポリタンとレモンティーだったな。

●あ。私が日本で取材した時にも食べてた(笑)。歌舞伎町のホテルの2階のイタリアンで。それにしても悪いマネージャーだなあ。そうゆう人もつきまとうのがDEE DEEの周りだなあ。

ーー彼がいい人だからですかねぇ。当時の俺は凄く頬がこけていたんで「お前、飯を食ってるのか?」って言われて「お前の体が心配だ」って言ってくれた。こんな凄い人なのに、凄く優しくてビックリしたんですよ。1月で寒い時期だったからDEE DEEが「寒いから、これを着とけ!」って、ツアー中に彼が着ていたジャケットを俺に着せてくれたんすよ。

●ビリー君、ものすごく気に入られていたんだね。

ーー何か、とにかく本当によくしてもらいました。もう1つもらった物があって、指を出せ!って言われて「これは今回のツアーでお守りにしていた物だ」って、指にはめていたスカルのリングを結婚指輪みたいに指にはめてくれたんですよ(笑)  このツアーで、こうやってプレゼントしてくれる物もそうだけど、DEE DEEの人としての優しい気持ちに触れる事ができたんですよ。

●凄く貴重な話だなぁ。88年の来日ではそんなDEE DEEには出会えなかったから。

ーー回りの人からは「DEE DEEは難しいタイプだから大変だぞ」と言われてたんですけど、全然そんな事はなくて、逆に回りの事を気使ってくれてましたよ。たまに回りの事を気にしすぎるがためにその反動でイライラしている事も多少あったけど。

●当時は、ビリー君とDEE DEEにこんなに深い繋がりがあったとは思わなかったよ。時間が経ったから、今日みたいにいろんなエピソードを聞けてると思う。それでDEE DEEに曲を書いてもらってCDのリリースに繋がるの?

ーーいや、実は2回目の来日時(2001年7月)、DEE DEEは他のメンバーより早く来日したんですよ。成田に迎えに行くとDEE DEEが、「お前に曲を作ってきたぞ。今からスタジオに入るから予約しろ」と(唐突に)言ってきて、それで東京へ向かう車の中で、実際に本当に書いてきてくれた歌詞カードやCD用のジャケットに使うイラストを数パターンを色々と見せてくれた。「どうだ、何か好きなのあるか? これは“BUGMAN”って言うんだ」と見せてくれたのがこの曲なんですよ。



 
●あらかじめ書いてきてたんだね?

ーー曲をもらった時、DEE DEEから言われたのは「俺達がやっている事やRAMONESの音楽はもう古いんだ。だから、これからの時代はお前みたいな奴が出ていかなければいけない。俺達の役目は終わったから、誰かにバトンを渡したかった。それがお前(ビリー)だ」とまで言ってくれた。「だから(曲を提供するけど)お前からお金は1円もいらない。この曲をお前達なりにアレンジしてどこからでもメジャー・デビューして、もっと太れ」と、3曲を提供してくれたんですよ。

●DEE DEEやるなあ。

――歌詞カードを見るとバタフライのイラストが書かれていて、歌詞の内容を読むととBUGって虫の事で、そのBUGは俺の仲間だと書かれていて、これって俺の事を書いてくれているんだと思ったんですよ。さらにビックリしたのが一番最初に俺たちのバンドで、DEE DEEに聞いてもらった「サイコ・セラピー」にソックリなんですよ。『I AM BUGMAN』っていうフレーズが。カバーした事を覚えてくれてたみたいで、RAMONESの中でもそういう曲が好きなんだと思って“「BUGGMAN」”を書き下ろしてきてくれたんですよ。ちゃんと覚えてくれていたのが凄くうれしくて、そういうとこにも凄いDEE DEEの愛情を感じましたね。

●本当だね。

ーー「SHEENA IS A SURF PUNK」という曲はバーバラ(DEE DEEの奥さん)について書いた曲で普段からDEE DEEはバーバラが凄く好きなんだとよく言っていたんですけど、この時も「お前の事も好きだけど大好きなバーバラについて書いたこの曲をお前にプレゼントしたい」と言ってくれました。実はもう1曲“BUGG DANCE”という未発表の曲があるんです。なかなかタイミングが無くて発表できない。でも今回ユキさんと自然な形で再会できたのもそうだし、いろんな場面でRAMONESとの繋がりを感じてきたから、DEE DEEのためにも、この曲をどうにかしたいと考えています。

●DEE DEEは、自分の曲を提供すれば売れると分かっている上で、今までは(曲提供)とかあまりやってこなかったのに、書いてくれたって事は気持ちで出た行動だと思うなあ。

ーー当時、このCDを出すって決まった時に周りから凄く言われたんですよ。曲をDEE DEEから金で買ったんじゃないかと。金を払って作ってもらったんじゃないかと周囲から散々バッシングされたんです。ステージに立った時も火の付いたタバコを投げつけられたり、当時のインタビューでもちゃんとした事を書かれなかったり。あんなPUNKを知らないバンドがDEE DEEから曲を貰う訳がない。嘘に決まっているとか。曲もDEE DEEが作っていないのに作った売名行為だとか、金を払って作らせたとか。とにかくもう言われまくって。


●そうなんだ。

ーーそれで俺が思ったのは、RAMONESが好きでDEE DEEが好きな人にひがまれるのはしょうがないし俺もそれは分かる。ただ俺が凄く腹が立って悔しかった事は少なからずそういった事を言っているお前達がリスペクトしているDEE DEEがそういう事をすると思うか?と。自分達が好きで信じているアーティストがそういう事をする訳がないって事を信じろよって思いましたよ。こんなバンドになんでプレゼントしたんだ?って思われても、それは別に構わないんですよ。でもDEE DEEがやってくれたことに関して魂を売るような行動をしていると思われたとしたら、それが残念なんですよ。それを、どうやって証明したらいいか分からなかった。俺がインタビューでいくら言ったってぜんぜん信じてもらえず証明できない。だから、自分がこの曲をカッコ良く歌って、良い曲だなとRAMONESを知らないROCKキッズがそう感じてくれた時がその答えだと思ってたんです。散々言われたけど、俺達はDEE DEEに曲を提供してもらったし、これはレアな事だから、そのDEE DEEの気持ちを大事にしたいよね、と当時のメンバーも俺の意思を理解してくれたんですよね。

●なんだか大変だったんだね。正直、私は当時の2人の関係を知らなかったし、DEE DEEが若いバンドに対してどう思っているかも知らなかったので、ラッキーだねくらいにしか思わなかったよ。でもジャケとかレコーディングしたというのを聞いていたから、(ああ、彼らとはウマが合っているんだな、DEE DEEは日本のバンドとの絡みが楽しいんだな)とは思ってた。そうじゃなきゃ、スタジオなんか入らないだろうから。

ーーDEE DEEとスタジオに入ってこの曲をやった時が7月だったんですけど、DEE DEEが「来年また呼んでくれよ。その時に一緒にレコーディングもしようぜ」という話になったんですよ。RAMONESを辞めてからベースを弾くDEE DEEってあんまり見なかったじゃないですか? でも、このスタジオでは目の前で、あのダウンピッキングを見たんですよ。目の前で、ですよ。見られて、聞けて、凄いプレゼントですよ。



●それを体験できたのは、最初にDEE DEEかザック・ワイルドを呼ぶかという時に、DEE DEEに決めたのがきっかけで、そこから繋がって親交が深まって行くプロセスと時間はビリー君自身がセレクトしてたし、誰かに押しつけられている訳でもない。だから偶然じゃなくて必然だよね。私はそう思うなあ。

ーーそうですね。だから全部それを受け止めるって言ったら生意気ですけど、まだ若かったというのもあるけどDEE DEEが自分に対して持ってくれていたという気持ちを信じて大事にしていれば間違いないと思ったんです。周りの意見というのは全然関係なくて、(DEE DEEが曲を提供してくれたから)俺はラッキーだという考えも無かった。でも有り難いとか、そういう気持ちでもなくて、本当に自分の中でこれは運命なのかな。俺がやらなくてはいけない事なのかなと思ったんですよ。

●自然だよね。人と人としての自然な普通の繋がりで始まったんだろうね。

ーー自分はこのジャンルの音楽をやりたいとか、こんな人になりたいとか残念な事かもしれないですけど全然無いんですよ。本当にどんな人もただの人間じゃないかと。その中で歌を歌ったり、ギターを弾いたりしている事だと俺は思っているので、あんまりPUNKとかMETALとかのジャンルのカテゴリーに自分が収まりたく無いっていうのもあって。それが当時は欠点でもあったんですけど元々俺はそういうのが無くて自分のカッコ良いと思う歌をやれば良いと思ってて。だからDEE DEEが作ってくれたサウンドを良い意味で壊して自分達なりのスタイルでやったとは思っているんですけどね。

●当時のビリー君のバンドの存在やプロモーター業は、時代の状況から非常に誤解を生みやすかったと思うし、周囲からの妬みもあったんだろうね。



ーー2002年の8月に3度目のDEE DEE RAMONEの来日公演が決まっていたんですよ。だけど6月5日にDEE DEEが亡くなる。DEE DEEも日本に行くのを楽しみにしてくれていて俺達も楽しみにしていたし、来日したら一緒にレコーディングもしようと考えていたから、あの時は本当に信じられませんでした。DEE DEEって凄い誤解される事も多かったと思うんですけど、本当は自分の事をちゃんと考えていたと思う。同じくらい回りの事も見えていて、考え過ぎちゃうから、なんとなく頭のおかしい行動をしたりクレイジーだと思われたりするのかもしれないですね。

●DEE DEEと仲が良かったデザイナーのアートゥロ・ヴェガがよく言ってたけど、DEE DEEには二面性があって、良いDEE DEEと悪いDEE DEEの面がある。もしかしてビリー君は悪い面を見てないかもしれないし、DEE DEEも見せたくなかったのかもしれない。ヴェガは歳も近くて昔から一緒に色々してきたから両面も見せていたと思うけど、歳下のバーバラやビリー君はDEE DEEにとって大事にしたい人物だったんじゃないかな。私もいろいろとDEE DEEのエピソードを聞いて来たけど、本当は繊細な人なんだと思う。


ーーそう思います。凄く純粋な人なんだと思います。


●亡くなったニュースを聞いた時は受け入れられた?


ーー体も足も大きな人で、肉体的にはとても死んじゃうようなタイプじゃなかったからすぐには信じられませんでしたね。何年か後にLAのお墓にも行ったんですけど、それでもやっぱりまだ信じられませんでした。でも自分の中で、DEE DEEは現実的な所にいた人じゃなかったから、元に戻ったという感じかな。一瞬、RAMONESのDEE DEEじゃない現実的な所もたくさん感じさせてもらって見せてもらったけど、自分には、またRAMONESのDEE DEE RAMONEに戻ったって感じなんですよ。ユキさんとこのインタビューをすることが決まって、いろいろ思い出してみたら、俺、2001年の1月に初めてDEE DEEと会って、2002年6月5日に亡くなるまで、たった1年ちょっとしか付き合いなかったんですよ。こんなに短い期間だったのか…って自分でも驚いて。

●濃い時間だったんだね。でもこうゆうのって時間の長さじゃないよね。
 
ーー本当に貴重な体験をさせてもらったから。自分はDEE DEEから曲を提供された唯一の日本人なんだし、その曲を継承してDEE DEEが新しい音やれよって言ってくれた事を、今も昔もずっとやろうと思っていますよ。

●永遠に歌っていく事が大事と教えられた?

ーー当時、DEE DEEは誰も信じる人がいないんだって言ってて、お前とは一緒に居たいんだって言ってくれたんですよ。もしかしたら自分の勘違いだったのかもしれないけど、そうだったとしてもそれを信じていようと思っているんですよ。

●時間と気持ちを共有できたのは勘違いではなく事実だと思うなぁ。今日は貴重なイイ話をどうもありがとう。



『脱日/夢幻期限』/mil9
VMRB-2 / 1,200円+税.
全国の主要CDショップにて6月4日発売。
■ホームページ http://mil9cake.com/index.html

インタビュー / yuki kuroyanagi / Ramones Fan Club Japan
取材場所 / 2013年11月、東京・吉祥寺
撮影 : yuki kuroyanagi / Ramones Fan Club Japan
アートワーク:ヤーボ・ラモーン (東京ラモーンズ)
協力 : もにゃこ(FCスタッフ)、SHIN (FCスタッフ)


テキスト及び写真 : 畔柳ユキ / Ramones Fan Club Japan (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN
ALL TEXT by (c)yuki kuroyanagi & (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN
some photos by Staff.


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