今回もヒジョーに永らくお待たせしました。
1995年4月に届いた初期RAMONES FAN CLUB JAPAN制作のオール・ラモーンズ・ファンジン「LOCO PRESS vol.3」をYUKI会長の裏話を交えつつダイジェストで紹介します。まずは時代背景から遡ると、1995年は阪神大震災に続き、地下鉄サリン事件と何かと日本が混乱した時代でした。さらにラモーンズ・ファンが混乱に落ち入ったのが、同年6月に発表が決まったばかりのニュー・アルバム「ADIOS AMIGOS」。前作「ACID EATERS」から2年降りのフル・アルバムに狂喜する一方、直訳で「さらば友よ」というアルバム・タイトルをvol.3のNEWSで見た時は、ラモーンズの解散の噂がチラホラでていたので、活動を一次停止するだけ?! 永遠に続くバンドじゃないの?!もうチッタで見れないの?!そして、まさかラモーンズが解散…と、当時は世界各国センチメンタル・ジャーニー状態。しかし(まだ)正式発表はされていないので“噂”には流されず前向きにいけ~と叱咤激励の熱い内容!(笑)

当時の解散にまつわる“噂”が絶えなかった何とも言えない時代を含めてYUKI会長と共に「LOCO PRESS vol.3」振り返ります!






1:NEWS:ニューアルバム「ADIOS AMIGOS」発売情報

ネットではなく音楽雑誌から情報を入手していた時代の中、どこよりも早く告知されたのがLOCO PRESSでした。東芝EMIから日本先行発売という嬉しいニュースと共にジャケットはまだ不明でしたが収録曲を見ただけで期待は溢れるばかり!しかもディー・ディーが6曲も作曲で参加しているなんて、どういう事だ?とか今回はCJの曲も多いぞ!等々、色んな意味で発売前のワクワク感を楽しめました!

ここで早速YUKI会長に登場してもらいます!   

Q:今回は1995年4月制作の「LOCO PRESS vol.3」を振り返ってもらいます!  いきなりですが日本では1995年の夏頃にラモーンズが活動停止すると告知されたと思うのですが、このvol.3を手掛けた4月頃は、 既にYUKI会長はラモーンズが引退する事は知っていたんですか?ジョニーから話があったとか? 初めにどのように知ったのでしょうか?   

YUKI : はい。知っていました。1年以上前にジョニーから「引退する」とは告げられていました。    最初に「引退」という単語を口にしたのは、手紙ではなくその前の1994年の来日だったと思います。まったくピンときませんでしたけど。

Q:今、思えば『さらば友よ』って分かりやす過ぎるタイトルですもんね。でも自分はvol.3を読んでいた時は引退なんて考えられず、“活動停止”という表現も使われていたので、少し休んでまた活動してくれるはずだ!と勝手に思っていて、それより何より普通にニュー・アルバムを早く聞きたいという気持ちの方が強かったのですが、Vol.3を読んだ当時の会員は“引退”に対してどう感じていましたか? 

YUKI : みんなピンときていないという感じだったんじゃないかな。そもそもロック・バンドが宣言して活動を終わらせるっていう事例がこれまでなかった。 いるのかな?「来年で終わらせます」みたいなバンド。シーンの終焉はあっても、ロックの歴史はまだ浅いし、演者=プレイヤーも若いから、終わりや解散ていう言葉はツアーをコンスタントにやっているバンドには不釣り合いだった。「来年終わるの? 今ワールド・ツアーやってるのに?」みたいな。だから会員は「きっと引退するんだろうけど」実感はまだなかったかもしれない。インターネットの無い時代だから、会報なり音楽雑誌の記事で「引退」という活字を見てじわじわと感じながら、納得していったんじゃないかと思う。

Q:実際に「ADIOS AMIGOS」を新譜で聞いた時も“本当にラスト・アルバムなのか?”と疑うほど素晴らしいアルバムだったので、 さらに“解散”するという意識はあまり無かった気がします。 YUKI会長は初めて「ADIOS AMIGOS」のアルバムを聞いた時はどんな印象でした?



YUKI : ラモーンズらしい良い曲が集約したアルバムで「最高 ! 」だと思った。このアルバムをラモーンズのベスト3に入れないのは、やっぱり最後だから複雑な心中が絡んでくるからかもなとも思う。今思うと、ライヴでやる曲がたくさん入ってる後期の最高傑作かもしれない。でも「最後だからいい曲がつまってるのか?」 って考えだすと、ますます「じゃあなんで辞めるのよ?」的な感情が渦巻いていた。まだ、私自身が「引退する」とか「引き際」とかまったく理解できる年齢じゃなかったし、イギー・ポップみたいにジジイでもかっこいいロック・ミュージシャンたくさんいるのに何で辞めるって考えるのかな? って思ってたから。肉体的なツアーへの限界があるとしても、あのころの自分には、それがどれだけ大変なのか、想像できる頭もなかった。今なら分かります(笑)

Q:vol.3の中でも特別手記として 「ラモーンズは近い将来解散する・・・のか?」というタイトルで1ページ掲載されています。 内容は『“解散”はメンバー4人が決める事だし、その事実に対して泣いて悲しむか後悔しないように残りの活動期間を認識するかしかない』    といった文章が掲載されていましたが、これはファンに対して心の準備をして欲しかったという事だったのでしょうか?

YUKI : そうです。会長が泣くわけにいかないから(笑) それに本当に終わるのなら後悔しないように、見られるコンサートは全部見とかなきゃ ! と決意はした。会報では、とにかく「寂しい」とか「これまでを振り返る」とか後ろ向きな言葉はまだ早いしそっちに行かないように努めてた。それは終わってからでもできるので。
 私自身うじうじしているだけで時間が過ぎて行くのが嫌いなタイプなので、何をやればいいんだろう? と考えていた。ジョニーも考えていたよ。でも本心はそうやって自分を奮い立たせて落ち込まないようにしていたのかも。好きなバンドがもうすぐ終わるということは、自分にとっての楽しいことが減る。好きな曲ももう生では聴けないし。残酷な宣言だよ。だから最後にあれこれジョニーとファンのために企画を考えてはいたけれど、時々「引退撤回してよ」と心奥の方で思っていたけど、すごい頑固なの知ってるから無理だろうなぁと思ったり。そう思うとがっくりきちゃうからとにかくやれることを全部やろうとそっちばかり考えるようにしていた。本当はハッピーではなかったと思うわ。今思うとね。


 確かにあの時期にFC JAPANが引退に対して悲壮感を出してしまっていたら、新譜に対しても最後の来日公演に対しても“楽しむ”より“寂しい”が勝ってしまいますもんね。LOCO PRESSでの前向きな姿勢が今思えば有り難かったです。



2:ディー・ディー・ラモーンインタビュー(by UKFC.)  



 続いてイギリスのファン・クラブによるディー・ディー・ラモーンの超貴重なインタビューを5ページに渡って掲載!!ディー・ディーのインタビューが日本語で読めるなんて当時の日本ではありえなかったのでFCならではの特別企画でした!  内容も濃厚でディー・ディー自らが語る脱退時からソロ活動の状況。さらにラモーンズに関しては、「オレから見たらラモーンズはまるで子供だね。ちっとも耳を貸さないし、正しい事をしないんだ。それでもオレは今でも彼らの味方だ。
   彼らは何かしらオレの事を必要とすると思うよ。曲も提供したいと思っているし。」 と、切っても切れないラモーンズとの運命とアルバムに参加する内容をこの頃から語っているのも興味深いです! ディー・ディーのディスコグラフィーでは、YUKI会長による手書きのジャケが手作り感だだ漏れで最高(笑)



Q:ディー・ディーのディスコグラフィーのイラストがラフなのにどのジャケットか一発で分かってファンジンらしくて最高なんで、今の会員にも見てもらいたいです!イギリスのファン・クラブのインタビューが掲載される事も当時は有り難かったのですが、他の国のファン・クラブと交流はあったのですか?

YUKI : あの頃、ファンが運営するファン・クラブは、日本、イギリス、イタリア、スペインあたりにはあった。アルゼンチンを初めとする南米にもそれらしきものはあったけど、コレクターっぽい人がやっていた。ファンに向けて発信する役の人=会長がニュースを提供したり、アクティブに活動をしないとファン・クラブは成り立たない。ファン・クラブと名乗ってもメンバーに会いたいからってぺらっぺらの紙でニュース書いて発信してもファンに認めてもらえられない。だから、ファン・クラブもどきはすぐ消滅したしメンバーも相手にしていなかったと思う。

 質問の答えに戻すとそれぞれの国の会長の名前と顔を私は知っていたけれど、交流はなかった。でもこのインタビューはちょうどスタッフがイギリスにツアーを見に行ってて現地で向こうのファン・クラブのスタッフとも交流していたので、許可をもらって載せました。
 ファン・クラブって、切手を貼って手紙でやりとりする時代だから、マメで社交的なタイプじゃないと続かない。それでもヨーロッパのライヴ・リポートとかは欲しかったので、イギリスのファン・クラブに連絡するけど、英語がいまいち得意じゃなかったからか、交流が活発になることはなかったね。でも会報を交換しようみたいなことはあったけど、それもたいしたことなくて…無くしちゃったなぁ。
 会報を見ないと、向こうでどんな活動をしているのかがわからないから、来日した時にメンバーに質問するの。「イタリアのファン・クラブやっているマリオってどういう子? いい人?」って。それで自分とうまが合いそうかなと思ったら手紙を出してコンタクトを取ったりもあったけどあまり続かなかったね。そもそも向こうは日本語の手書きの汚い会報もらっても読めないしメリットなかったから興味もなかったんじゃないかな。
 イタリアのマリオは、91年にNYの公演を見にきていた。他の国のファン・クラブの会長もバンドのツアー・バンに乗せてもらっていたの。何かみんな緊張している感じで静かで「ああ、他のファン・クラブの子はラモーンズとの関係は距離があるんだな」と感じた。
 私はアルゼンチンの男の子とは時々やりとりしていた。名前を忘れちゃった。彼はUKツアーを見にきたりアクティブだった。今だったらもっといろんな情報をやりとりできておもしろいことできていたかもね。彼はジャーナリストも目指していたので、書くことにも積極的だったし書籍も出しているよ。



3:MUZIC ZONE「座談会/会員参加世代別トーク「ラモーンズの激情」 



 
続いて恒例となってきたファン・クラブならではのディープなトーク座談会コーナー“MUZIC ZONE”

 今回はラモーンズ歴(当時で)15年のYUKI会長が司会となりファン歴2年~5年の会員が集うという初の試み!  「ラモーンズの激情」をテーマに繰り広げられた座談会は世代別の会員が参加するというファン・クラブならではの盛り上がり。今も当時も世代を超えて集まるファン・クラブというのがスンバラシイ!こういうトークイベントを今後行っても楽しいかもしれませんね。



4:ピンヘッド大特集



こちらも他誌では絶対に脚光を浴びる事は無いであろう謎のラモーンズ・マスコット・キャラクターである“ピンヘッド君”特集!ライヴでもPINHEADの途中で「GABBA GABBA HEY看板」をジョーイに渡す大役をこなし続けたピンヘッド君。元々は1930年代のカルトムービー『フリークス』に登場し、カルトムービー好きのジョニーがひっぱり出し、『ROCKET TO RUSSIA』の裏ジャケやRAMONES Tシャツにも度々登場するまでに定着! RAMONESのステージではドラム・テクニシャンがピンヘッド役をこなしていましたが、まさかCJ RAMONEの2013年FUJI ROCKグリーンステージでYUKI会長がピンヘッド役を担うとは、誰が想像できたであろうか!



5:I’M RAMONES MANIA vol.3 THE RYDERS / J.OHNO

 そしてミュージシャン/関係者/有名人等のラモーンズ・マニアを紹介する恒例のコーナーでは遂に!日本でラモーンズ・サウンドを継承する THE RYDERS の J.OHNO 氏が登場!
 『正直なところ、ラモーンズには衝撃的なものが(初めは)何もなかったんだよ』というエピソードから、初めからJOEYが好きかと思いきや、当初は『ディー・ディーがいたからラモーンズを好きになった』と意外な事実があったり、『影響されたバンドはいつまでも越えられない。たとえオレたちが何年バンドを続けたとしてもね。ラモーンズはやっぱりでかいよ。」と、ファンとしてバンドマンとしてラモーンズに対する敬意や愛情が深く読み取れる内容は読み応え十分!

YUKI会長とJ.OHNO氏はまさに“同志”といった感じで、まだまだ聞きたいと思わせる濃い~内容なのですが、J.OHNO氏のラモーンズに対する思いは当時から熱かったと思うのですが、今だから話せるおもしろいエピソードはあります?

YUKI : エピソード? うーん。さすがにもう忘れました(笑)。当時は私のまわりでラモーンズ・ファンを見つけるのが大変でね。ラモーンズが好きでもそれは3番目だったり4番目だったり、日本ではやっぱり好きなのはクラッシュやピストルズやタムドっいうパンクスが多かったので、ラモーンズだけで深い話ができるのは私のまわりだと大野くんや丸山くんだけだった。あえてくん付けて言わせてもらうけど、大野くんと話をしていたのは84年頃だから、アルバムだと『TOO TOUGH TO DIE』がリリースされた頃。それで電話で「聴いた?」みたいになって1曲目からああでもないこうでもないと2時間くらい喋るのはザラだったよ。ラモーンズのことしか話してないの。   
 まだラモーンズのバンド内のメンバーの位置付けもよくわからない頃だったし、来日しないかなぁという夢物語みたいな話をしているのが楽しかった。来日が夢であり希望の時代。マイノリティに近いバンドを好きになった同士が語りまくっている感じだね。今とはラモーンズの立場も位置も環境もぜんぜん違うからね。どう説明したらいいか難しいけど、ラモーンズは日本に一度しか来たことのないアメリカのパンク・バンドで、何してるのかニュースも届かなくてよくわからない、you tubeもないから動いているところ見たことない、ベスト・ヒットUSAにも絶対出ることのないアメリカのパンク・バンドだよ。当時は私はまだジョニーと文通もしていないから、本当に海の向こうのはるかかなたの遠くのバンドだったよ。私も大野くんもディー・ディーが好きで、ラモーンズはディー・ディーだってよく話しいた。ディー・ディーって男に好かれるよねぇ(笑) かっこいいじゃなくて、当時から男の子からも「キュート」みたいな言われ方もしてたなぁ。

YUKI会長とJ.OHNO氏の濃い~対談の続きは、WEB版『I'M RAMONES MANIA』FILE.5に再登場しているので、そちらも、ぜひ堪能して下さい。



6:LETTERS、Q&A、プレゼント・コーナー 

最後を締めくくるのはファン・クラブならではの会員からのレター、Q&Aコーナー!このコーナーを通して会員の知りたい事、思っている事、好きなアルバム等が掲載されてファンのコミュニケーション・ツールとして楽しめました。 最後にYUKI会長に当時の状況を振り返ってもらいます。   

Q:手紙と一緒に会員から届くイラストが多く掲載されはじめて、見ていて楽しかったですし皆さん上手い! 今はメールで簡単にコミュニケーションが取れて便利で良いと思うのですが、当時はハガキや便せんに直筆で書かれた会員からの熱い想いが郵便で届けられていた訳ですから、やっぱり今と感覚が違いますよね。



YUKI : そうだね、違う。最近、自分のブログに「Thank you RAMONES」の感想が手紙で届くという話を書いたんですけど、手紙は今の時代、集中力を持って、ぐっと気持ちが集約されているように思えるんだよね。紙やペンを用意しなきゃいけないし、考えて書く労力も気持ちもメールのお手軽さとは違うから。もっとも当時のハガキや手紙はそれしか方法が無いから気楽に書いていたかもだけど、どっちも知っている世代としては手間をかけているものの方が愛着がわく。イラストをハガキを4枚に描いてきて送ってきて「セロテープでくっつけて一枚にしてください」なんていうユニークなのもあったよ。ファン・クラブのために時間をかけてここに向かってきてくれているというエネルギーっていうと大げさかもしけないけれど、そうゆうのは感じたし大事にしたかった。私はメタル雑誌の編集部で働いていたので、バンドに対する想いを手紙やハガキで書いてくる子は、マメさに加えて熱意や積極性もあるファンのやることって思ってた。

Q:vol.3では発送費を削減するため泣く泣く封筒サイズを小さくして、印刷が上がったばかりの会報を折りたたんだとの事ですがこれは制作側にとっては辛い決断でしたね。(よく見るとVOL.1&2では無い折り線が付いています。)

YUKI : しょうがないよね。切手代を倍にすることは、今思うとそんなに大きな金額じゃないって思うけど、当時の通信手段ではそれが平均価格というか、会報を郵便で送るのに倍の切手代を払わせたら、無駄っていう声が上がってる可能性はあった。会報は、ミニコミや同人誌を専門に吸ってくれる印刷屋さんに出してて、そこまで取りに行くんだけど、行くと段ボール箱にインクの刷りたての香りがする会報が綺麗にたくさん入っていた。そしてスタッフに「明日家に会報が届くから時間がある人はみんな集まってね~」と電話して、まずは印刷の匂いをクンクン嗅ぎながら(笑)、新しい会報をみんなで先に読む。
 最初の1冊目を折るのは嫌だったけど、しょうがないと決めて「えいっ」と追って封筒にどんどん入れていく。それから住所をみんなで書いて、封筒の山をまた空の段ボールに入れてそれをキャリーに乗せて郵便局までがらがらと運ぶという、何もかもアナログな労力のかかる時代。だからやりがいを体で感じられてたとも思うけどね。NYのメンバーにもちゃんと送っていたよ。東京のしがないアパートの作業だけど、NYに届いているとなんか国際的なことをやっているなぁ、なんてちょっと思ってたよ(笑)

YUKI会長ありがとうございました!



~予告編~
次回は1995年7月に届いた『LOCO PRESS vol.4』を紹介します。いよいよリリースされたニューアルバム『ADIOS AMIGOS』を徹底解剖し、メンバー自身が語るコメントも掲載。活動停止の“噂”から“事実”に繋がっていく、この時期。海外雑誌の「KERRANG」や「ROLLING STONE」に掲載された『噂の真相』に関する記事を紹介。I'M RAMONES MANIAでは御代・大貫憲章氏が登場するなど読み応えたっぷりな内容を紹介します!お楽しみに!


企画・編集 / FCスタッフ : シン
アート・ワーク / FCスタッフ: YARBO RAMONE(東京ラモーンズ)
協力 : 小川さつき

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