1月10日 川崎 クラブ・チッタ
1月11日 東京 メルパルク・ホール
1月12日 東京 メルパルク・ホール
1月14日 名古屋 ダイアモンド・ホール
1月15日 名古屋 ダイアモンド・ホール
1月17日 大阪 IMPホール
1月18日 大阪 IMPホール

ファン・クラブ会員証。
デザインは何度かリニューアルしています。
この頃のラモーンズはロック・ファンから「しょっちゅう来日するベテラン・パンク・バンド」と呼ばれていた。だからラモーンズの日本公演は「今回は見逃してもどうせまた来る」という感覚でとらえられていて、 あれほど時間がかかった1988年の2度目の再来日公演からは想像もできない状況になっていた。それほどラモーンズは日本を気に入っていたし、彼らのツアーに日本が組み込まれないことは絶対になく、日本にいることは当たり前だった。

この年の日本公演から1995年のラスト・ツアーまで、東京の滞在先は新宿のセンチュリー・ハイアット・ホテルに変更。その理由は「新宿西口の景色がマンハッタンに似ている」「レコード店がたくさんある」さらに、この頃バンド内で流行っていたライヴ終了後に「ゲーム・センターに簡単に行くことができる」ため。日本(東京)の滞在を自分たちでリラックスできるように工夫していたように見える。この頃、新宿歌舞伎町には「ハイテク」大型ゲーム・センターがあったので、ライヴ終了後は他のバンドのように飲みに行かずゲーム・センターが閉まる24時までシューティング・ゲームやカー・レースのゲームをしていた。
ジョーイは知ってか知らずか、ゲーム機にお金を入れずカー・マシーンの前に座ったままハンドルを握っているだけでまるで子供のようだった。そのJOEYはバスケットボールのゲーム機ではあの身長で本気でシュートをするので、ボールが勢いあまって新宿歌舞伎町のゲームセンターの外まで飛び出し、ファンたちが我先にとボールを拾いにいくという部活動の球拾いのような微笑ましい光景も見られた。これが1993年頃のライヴ後の日常風景で、あまりホテルの部屋から出ないMARKY以外の3人はこのようにほぼ毎日ゲーム・センターで遊んでいた。よく来日していたので、取材がこなせないほどスケジュールが詰まることもなく、メンバーが使える時間の余裕があったこともある。CJとJOEYはこの頃オルタナ系バンドの話でよく盛り上がっていた。CJは世代柄ゲームが上手かった。


ライヴ終了後にこの看板を持つスタッフの前に「5分で集合させられ楽屋に向かいました」。
ラモーンズの楽屋で写真撮影やサイン会を行ないました。この為日本公演はメンバーは常にプレゼントをどっさり持ち帰ることになり喜んでいました。
ライヴ・パフォーマンスはCJがヴォーカルを取ったりバックでコーラスをつける曲も増えた。ライヴのフォーメーション、ヴォーカル等、ラモーンズのライブ・パフォーマンスのスタイルも完全に習得。この頃、ラモーンズの影響を受けファンになった世代にとっては、オールド・ファンにカリスマ的存在だったソング・ライター、DEE DEEよりも、CJ ラモーンこそリアル・タイムでラモーンズ のベーシストだった。年齢も若くルックスもキュートだったので、ホテルのロビーにCJ目当ての女の子のファンも集まっていた。 このツアーの来日公演の会場は、お気に入りのクラブ・チッタが押えられず地方も含めホールの会場が多かった。しかし、東京公演はスタンディングでライヴが見ることがスタートして数年経っていたので、慣れた観客が椅子をハードルのように飛びながら前列まで突進してしまいクラブのショウのようになっていた。

テキスト&写真 : 畔柳ユキ / Ramones Fan Club Japan ©RAMONES FAN CLUB JAPAN
ALL TEXT & Photos by ©yuki kuroyanagi & ©RAMONES FAN CLUB JAPAN
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