ラモーンズ関係者の中でも音に関してとても大事なキー・パーソン、プロデューサーのダニエル・レイに遂に話を聞くことが出来た! 彼は「ジョーイともジョニーとも仲良しだった」というだけあり、誰に対してもフランクで、親しみ易いキャラクター。
亡くなったメンバーの話ではしんみりしつつも、インタビューということを頭にいれながら誠実に話してくれていたと思う。会員のみんなからの質問もおりまぜながら、楽しく談笑。
プロデューサーという立場と同時に熱心なラモーンズ・ファンという顔が始終見え隠れしながら、驚きの秘話も公開してくれました。

インタビュアー: yuki kuroyanagi(カイチョー・ユキ)
@高円寺HIGHにて <2010/2/18>



●まずは、ラモーンズのキーパーソンであるあなたに会うことができてうれしいです。

Daniel(以下、D):僕だってそうさ。ありがとう!

●はじめに、ショーの感想を聞かせてください。東京でのライブはどうでした?

D:最高に楽しかったよ! ラモーンズの曲を日本でプレイするのは今回が初めてのことだから、喜びはなおさらだね。

●今回が4度目の来日になるそうだけど、過去にはいつ誰と来たんですか?

D:初来日は、日本のバンドPOGOをプロデュースしたときかな。鳥井賀句 (POGOの2ndアルバム『1990』のプロデューサー)と友達で僕はサウンド・マネージメントを担当したんだ。あとは80年の後半にサーカス・オブ・パワーと来日し。そして10年前にロニー・スベクターと来日し、東京のライブ・ハウスで1週間で3回のショーをやったよ。そして4回目がこのCJラモーンのジャパンツアーだ!

●そもそも、ラモーンズのメンバーとはいつ頃どう出会ったんですか?

D:初めてラモーンズと会ったのは、1976年の7月。ラモーンズが初めてニュージャージーでプレイした日なんだ。ニュージャージーは、ニューヨークを出てすぐの街で、僕はそこで育ったんだ。当時の僕はコピーバンドをやっていて、ラモーンズのライブの告知ポスターを見て『ラモーンズが来る!? やったー!』って、仲間と興奮状態だったよ。

●当時すでにラモーンズの存在を知っていた?

D:もちろん。アンダーグラウンドロックにハマっていたから、ザ・ストゥージズやMC5、ニューヨーク・ドールズやラモーンズなんかは、自分たちにとってものすごい存在だったんだ。

●今出たバンドはまだ全部アンダー・グラウンドだったんですね? 当時のニュージャージーの子たちは、CBGBにライブ見に行ったりするノリではなかったんですか?

D:1976年にラモーンズが初めてニュージャージーに来たとき、僕たちはザ・ディクテーターズと知り合ったんだけど、CBGBの存在は彼らから教えてもらったんだ。彼らが言うにはニューヨークにCBGBっていうかっこいいクラブがあると。で、いろいろ聞いているうちに「行こうぜ!」となって、住所をメモって。翌週にディクテーターズがCBGBでライブをやることになっていたから、彼らを訪ねて行ったんだ。それがすべての始まりだよ。

●当時のあなたは何歳でしたか?

D:16歳か17歳。まだハイスクールボーイだった。CBGBに通い始めて、1977年くらいからラモーンズの前座をやるようになったんだ。デッド・ボーイズなんかもそうだね。

●ラモーンズと個人的に交流するようになったのはどんな経緯から?

D:ラモーンズの前座をやるようになってから、ジョーイと友達になったんだ。というのも僕の実家ニュージャージーの自宅の地下室には4トラックのカセットレコーダーがあって、レコーディングができる環境だったから。自分のバンドのレコーディングもそこでやっていたんだけど、ある日ジョーイがデモテープを作るのを手伝ったんだよ。ジョーイが持っていた曲を僕の自宅でレコーディングして、その流れでディー・ディーやジョニーとも友達になっていった。あの当時はまだ、ジョーイもジョニーも友達同士だったんだよ。みんなも知ってのとおり、悪いことはその後にやってきたから(笑)。ジョーイかジョニー、どちらかと友達というのはあるけれど、2人と仲良しっていうのはすごく稀。だからこそ、彼らのアルバムをプロデュースすることもできた。自分が初めてプロデュースしたアルバムが、お気に入りバンドの作品だなんて、最高だよね。

●今回、CJとバンドを組むことになったのは、やはりメンバーの死などがきっかけになっているのでしょうか?

D:そうでもないな。CJは自分のバンド(bad chopper)をやっていて、僕はそれをサポートしていたし、友達だからね。ジョーイの新しいアルバムを手伝うことにもなっていたけれど、それは形にすることができなかったから…。CJが目指す音楽には、ラモーンズをそのまま表したかのような生き生きとした部分と、人々が見たことのないラモーンズの一面を表現しているようなところがある。ラモーンズの音楽を後世に伝えていきたいという互いの意思が合致して、自然と一緒にやるようになったんだ。

●これまでCJと南米などをツアーしてきて、ラモーンズファンのあなたに対するリアクションはどんな感じでしたか? みんながウェルカムな感じでしたか?

D:すばらしかったよ! どの国の人々からも、純粋にラモーンズの音楽を楽しむ様子が伝わってきて、温かく迎え入れてくれた。オーディエンスがショーを楽しんでいる姿を見ることができたのじゃなによりうれしかったね。もともと南米でのラモーンズ人気は熱狂的なものだし、CJへの支持も熱い。あとからラモーンズを知った人も多かったと思うんだ。ラモーンズの“生きた音”を届けようとしていること自体が特別なことだし、みながディー・ディーを、ジョーイを、ジョニーを感じながら楽しんでいるのが伝わってきたよ。

●ラモーンズの曲をステージで演奏するというのは、あなたにとってどんな感覚なんですか?

D:僕の青春はラモーンズとともにあったからね。なんていうか…一瞬にして10代のころの自分に巻き戻るっていうのかな。初めて生でラモーンズの音楽を聞いたときの衝撃がフラッシュバックする感じ。とにかくエキサイトするんだよ。っていうか、あれは衝撃なんてもんじゃなかったな。自分自身ものすごいショックだったから(笑)。だってさ、すごい曲だろ? 自分がこれまで道を踏み外すことなくやってこられたのだって、ラモーンズの曲があったから。だからそうだね…今こうしてラモーンズの曲を演奏するのって、初心に立ち返る感覚なんだろうな。

●あなたの音楽のルーツを教えてください。

D:幼いころからギターが好きでね。はじめはクリームや、マウンテンのレズリー・ウエストといったギターヒーローに憧れていたんだけど、次第にザ・ストゥージズ、ニューヨーク・ドールズ、MC5と、“バッド・ミュージック系”に溺れていった感じ。中でもラモーンズの音楽には、当時の悪ガキたちが好む音楽の魅力をすべて携えながらも、バブルガム風なタッチがあった。AMラジオ風の魅力というのかな。すべてがパーフェクトなコンビネーションだったと思う。

●UKの音楽シーンにも興味を持ったりはしましたか?

D:ニューヨークの後に第2波的に到来したUKパンクロック・ムーブメントも素晴らしいと思う。ザ・クラッシュとかね。ただ、自分のテイストはやっぱりニューヨーク・パンク。セックス・ピストルズとかバズコックスみたいに、音楽的に面白いことをやっているバンドもいたけれど、どうも形から入ってる感がぬぐえなくて。安全ピンつけまくりとか、ポゴダンスとか、ハタから見ていると「馬鹿じゃねえの?」みたいな感じもあったかなぁ。

●当時のダニエルも、革ジャンに破れたジーンズといういでたちだったの?

D:実を言うと、75年はまだ長髪にハイシューズだった。CBGBでラモーンズを見たのを境に、髪を切ったよ(笑)。スニーカーだって変えたしね。だって周りのみんな、そうだったんだよ(笑)。

●さて、今回はミュージシャンとしての来日となりましたが、ラモーンズの前座をやっていたくらいだからバンド歴もあるわけですね?  これまで、プロデューサー以外の仕事もしてきたんでしょうか?

D:両方だよ。僕にはプロデューサーとミュージシャン、両方の側面が必要なんだ。なぜなら、スタジオではクレイジーになれるからね。プロデューサーとしてバンドに『FxxK YOU!』ってはき捨ててから、ギターを手にとってギュイーン! ってやることも必要なんだ(笑)。

●ラモーンズの仕事では、ディー・ディーとの共作が多かったと思いますが、彼との作業というのはどんな状況だったんでしょう? やっぱりディー・ディーハイな状態でレコーディングしていたの?

D:すばらしいライターであると同時に、壮絶なスモーカーでもあった。僕はあまり吸うほうじゃないけど、彼と一緒にいれば吸っているのと同じだからね(笑)。ディー・ディーはすごい才能の持ち主だよ。4、5曲だったら一気に書き上げてしまう。「これは?」「うーん、よくない」、「それならこれは?」、「グレイト!」ってやりとりする中に、「Poison Heart」や「I Believe in Miracles」なんかがあったりする。これってすごいことだよ。たとえば、ジョーイはひとつの曲を書くのに1カ月かかったりするわけで。まぁ、それはそれでジョーイがいかに特別かってことでもあるんだけどね。とにかくディー・ディーは素晴らしかった。だから彼がラモーンズを去った後も一緒に曲を作っていたよ。

●ジョーイは1カ月に1曲ですかぁ…よくついていけましたね。

D:ジョーイについていくことができた…確かにそうだね。それはどうしてかというと、やっぱりラモーンズがジョーイの曲を必要としていたからだと思う。バンドを続けていくために、そしてステージに立つためにね。そういう意味で、ジョニーはバンドの司令塔として本当によくやっていたと思う。彼はよくこう言っていたよ。「ディー・ディー、曲を書け。オレたちには“速い曲”が必要なんだ。ジョーイの曲はいらない。オレたちにはもうポップソングはあるから。速くてハードな曲だぞ。覚えておけ」。

●感覚として、ディー・ディーと5曲作るとなった場合、どれぐらいの時間でできたりしたんですか?

D:ノッていれば1日でオーケーだね。ご存知のとおり、ディー・ディーは感性だけで生きているやつだったから。「LOVE」と「HATE」が常に隣り合わせで、感情のおもむくままに曲を作っていた感じ。だからなのか、彼は曲を雑に扱うやつで、せっかく書いた曲でも「これでいいね。それじゃこっちはポイ」ってタイプだった。

●以前、ジョーイが「Poison Heart」はディー・ディーがスティーブ・ベイダーズとジョニー・サンダースのために作った曲だと言っていたのだけど、それは本当ですか?

D:もとを正せば「Poison Heart」はディー・ディーがラモーンズの曲として書いたものなんだけど、デモ段階でのジョニーの反応が「ちょっと…ベタかなぁ」って感じで、お蔵入りになったんだ。そのデモをディー・ディーがスティーブ・ベイダーズに渡したんだね。で、彼がレコーディングしたものを聞いたジョニーが「あれ…いいんじゃない?」って言い出したという…(笑)。だから「Ponson Heart」はスティーブ・ベイダーズのバージョンを基に作ったと言ってもいい。彼には感謝しなきゃだよ(笑)。

●お蔵入りしたけどその後採用みたいな曲は、他にもあったんですか?

D:どうだろう。思い出せないなぁ。おそらくこれだけなんじゃないかと思うよ。

●ちなみに、スティーブ・ベイダーズとディー・ディーとでバンドをやる計画があったのは本当ですか?

D:彼らはやろうとしてた。もちろん、スティーブ・ベイダーズ、ジョニー・サンダース、ディー・ディーっていうのは3人ともガソリンみたいなものだったから、この3人が組むということは、ダイナマイト的なものに、2本のシガレットをぶち込むようなもの。ようするに最悪のコンビネーションで、その通りの結末を迎えたよね(笑)。

●(爆笑)。彼らがガソリンやタバコだったら、プロデューサーのあなたって何だったんでしょう?

D:もちろん、消火器だよ(笑)。

●聞くだけ野暮でした(笑)。ちなみにアルバム『Halfway to Sanity』には共同制作としてクレジットされてますが、ラモーンズとの仕事で“これだけは!”と心がけたことはありますか?

D:ファンだよ、ファンがすべて。ジョニーはラモーンズとして、音楽シーンのトレンドをフォローするのは好まなかった。レコード会社のセールス予測やラジオ受けのいいものをというのでもなく、シンプルに、ファンに思いを馳せながらアルバムを作るんだ。ファンあってのラモーンズという意識の高さは傍らからも感じていたし、彼らとの仕事で一番に配慮されるべきことでもあったね。

●なるほど。レコーディングでも「ファン」というキーワードが大切なんですね。ところで『ジョーイの2ndアルバム発売か?』という噂もあるんですが、これもあなたのプロデュースですか? 具体的な情報がなかなか入ってこないんですが…。

D:それ、何なんだろうね? ジョーイは2ndアルバムは作っていない。彼が作ったアルバムはたった1枚だけ。2枚目と言われるものがあるとすれば、察するに彼が残したデモ音源のことだね。

●ジョーイの弟のミッキーが、2ndアルバムの発売について言及してはいるんですよね。

D:彼はそう言っているね。でも、それは2ndアルバムとは違うよ。ジョーイが残したデモ音源というのは、長年にわたってラモーンズのために書いていたもので、中にはレコーディングされるべきだった作品もある。だから、現状としてはアウトテイク(未発表音源)というか、ロスト・トラックの状態だね。それらの楽曲をひとつにまとめたところで、それをジョーイの2ndソロアルバムというのは成りえない。音楽への思い入れが強いジョーイだけに、なおさらね。



高円寺の公園で。こんな写真ラモーンズ時代には撮れませんでした…。


●ちょっと脱線するんですが、ラモーンズはメンバー亡き後、彼らと関係のないところでマーチャンダイズやら何やら、お金儲け的なものがうごめいています。私自身、この状況には正直困惑してますが、あなたはどう思ってますか?

D:僕もそうだよ。とっても違和感を覚える。今回のジョーイのアルバムの件にしても、本人は望まないだろうと思うしね。だって、彼が残した曲は、彼が作品として作り上げて、レコードとして発売されるべきものだったから。ジョーイってね、ひとつひとつの言葉に全身全霊を込めて歌うんだ。「ワンダフル・ワールド」のレコーディングだって、たしか彼は500回近くボーカル録りを重ねた。デモの段階ですでに最高だったにもかかわらず、「よりよいものを」ってね。だから、もし今後ジョーイのアルバムが世に放たれるとしても、それはあくまでもデモであるという認識をもって聞いてほしい。『これがジョーイの遺作です』みたいな形で世に放たれることはジョーイが望まないし、作品とデモの違いは絶対に正しておきたい。ただのビジネスにされてしまうことだけは、絶対に避けたいね。

●分かりました。ジョーイの曲作りは…作詞、作曲、歌入れ、すべてのプロセスに時間がかかる感じだったのでしょうか?

D:すべてだね(笑)。なぜなら、ジョーイだから。理想の形に到達するためなら、手間も時間も惜しまずひたすら作り続けるんだよ。

●「ノー!」って拒否られることが多かったですか? 頑固というか。

D:ジョーイの中に理想とするビジョンがあったから、僕たち外野がたとえ『グレイト!』と言ったところで、彼自身がそう感じなければ納得はしない。「まだ終わってない。これじゃカンペキじゃない」って、もくもくと作業を続けるんだ。

●あなたの意見や指摘に耳を傾けることもあったの?

D:ちょっぴりというかときどきは(笑)。

●はぁ…一緒に仕事していて、ギブアップしませんでした?

D:そういうときはちょっとブレイクしてから合流したりね。ご存知のとおりジョーイは完璧主義者なんだけど、同時に曲を完成させることに対する恐怖心も持っていた。「これで完パケね」なんて段階になると、もう触れられない、変えることができないという不安にかられるんだと思う。曲を仕上げる、作業をおしまいにすることの恐怖心というのは、いつも彼から強く感じていたね。



お気に入りのモズライトと。



●ところで、あなたはリッチー・ラモーンと仕事をしたことはありますか?

D:『Halfway to Sanity』ではドラムで参加してもらったよ」

●あなたから見て、彼ってどんな存在でしたか? 歌ったり、曲を書いたりといった役割も担っていたかと思いますが。

D:彼はいいドラマーだよ。ただ、100%ラモーンズだったかというと、微妙なのかなぁ。ラモーンズにはトミーやマーキーといったメンバーがいたけれど、リッチーは「ドラマー」って感じ。革ジャンを着た、腕のいいドラマー。ユーモアのある人間だったけれど、なんていうのか感性の部分において、ラモーンズではなかった印象があるんだよね。

●彼もいい曲を書いてましたけどね。

D:そうだね。「Somebody put something in my drink」とかすごくいいよね。いいんだけど…って感じかなぁ。

●CJの曲はよくジョニーにダメ出しをされていましたが、リッチーも同様だったのでしょうか?

D:そう思う。でも、あれは個人のセンスやスキルに対するダメ出しというよりは、ジョニーがラモーンズのレコードとしてのバランスにこだわったからなんだけどね。ジョニー的には、ジョーイは「ポップ」、ディー・ディーは「ハード&ファスト」。で、リッチーはハード寄りだったけど、ジョニーの思うバランスの中にハマっていればOKって感じだった。結果的に完全なレコードとして成り立てばいいっていう、実にジョニーらしい考えだね。

●レコーディングについてなんですが、ジョニーのパートをあなたが弾いていたという話を聞いたんですけど。

D:ジョニーがそう言ったのならそうだろう…(笑)。



東京・明治神宮にて。


●具体的に、どの曲で弾いているのか教えてもらえますか?

D:いっぱいあるよ。ジョニーとはよく一緒に演奏したから。僕の隣に立って演奏を見ているジョニーは、ラモーンズの音としてOKかどうか、確認するようでもあった。レコーディングは1テイクか2テイクで終了だったよ。ジョニーは常にやるべき仕事を速く正確にこなす。時間と金を無駄にせずにね。「いいね。じゃ、次!」って感じで(笑)。

●私が撮影するときと似たようなものかな? (※ラモーンズを撮影する時は3分で全てを終わらせるために、計画的に作業をしなければなりませんでした)。

D:そうそう、まさにそのスタイル、僕は好きだよ!

●ラモーンズのメンバー、みんなあれだけバラバラな人間だったにもかかわらず、あなたと作業するのを好んだのには、どんな理由があると思いますか?

D:僕が真のラモーンズファンだから…かな? ファンだからこそ、ラモーンズとしてのあるべき形やビジョンを共有することができたのかなと思うんだけど、どうだろう?

●そうですね。あとはやはり、忍耐力も必要ではないかと。忍耐力がある人だったと?

D:たしかに!(笑) 今でもよくあのディー・ディーをコントロールできたなと思うことがあるよ。ジョーイに曲作りを教えた時のこととか、ジョニーが弾きやすいシンプルなギタープレイを心がけたりとか…本当、いろいろあったね。

●トミーとの交流はいかがでしょうか?

D:素晴らしい人だよ。紳士で、いい曲を書く。とてもスペシャルな存在だね。立ち位置的にお互いに似たようなところがあるし。メンバーがアイデアを出す手助けをするところなんかは特にね。

●ちなみに、ダニエルはラモーンズ以外のバンドもプロデュースしているかと思います。L7とかそうでしたよね。ほかにどんなバンドを手がけましたか?

D:ヘラコプターズやミスフィッツ、たくさんのロックンロールバンド、パンクバンドと仕事をしたよ。最近でいうとレモンヘッズとかね。



東京・三鷹のモズライト専門店FILLMOREにてリハーサルに参加。


●印象に残っているバンドはいますか?

D:ヘラコプターズと仕事をするのは楽しいよ。彼らは最高のミュージシャンだ。エネルギーやスピリットも含めて、彼らのことが大好きなんだよ。あとはL7もね。L7はなんていうか、“最高の男気バンド”って感じだよね(笑)。

●ラモーンズとの仕事で、一番思い出に残っている曲は何ですか?

D:「Pet Sematary」は最高にエキサイティングな作業だった。木曜日に、作者のスティーブン・キング側から依頼の電話を受けて、ディー・ディーに連絡して彼のスケジュールを抑えて。翌日にはデモ作りが終わっていたよ。ディー・ディーは原作の小説を読んでから歌詞を書いたんだけど、2日間で簡単にすっと終われたんだ。あれはすごい体験だったよ。そのほかで特別な曲といえば、やっぱり「Daytime Dilemma」かな。僕にとってラモーンズとの最初の曲だから。

●「Daytime Dilemma」って、浮気を歌った曲なんですよね?

D:ジョーイが当時流行っていたソープオペラ(昼メロ)にインスピレーションを受けて書いた曲なんだ。『General hospital』っていう昼ドラがあって、ジョーイがハマっていてね。浮気がテーマというよりは、昼ドラだから、やっぱりドロドロ系なんだよ。ジョーイなりのジャンク・カルチャーへの愛着を肯定的な視点で歌ったものでもあるんだ。

●あなたもそのドラマ、見ていたの?

D:僕というか、アメリカ人はみーんな見ていたと思う。で、一喜一憂してた。なんせ、ダントツの視聴率だったからね。



FILLMOREの社長ご夫妻にご馳走になりました。
ダニエルはお箸とお茶碗の持ち方がまるで日本人です。



●さて、今はCJと新しいアルバムを作っているということですが、あなた自身も曲づくりに参加しているんですか?

D:曲はCJが書いているよ。すごいよ、素晴らしいラモーンズソング。クラシックなラモーンズのスタイルで新しいアルバムを制作することを、CJ本人が望んでいるからね。“これがラモーンズのアルバムだったらいいのに!”って思えるような王道ラモーンズソング満載の素晴らしいアルバムになるよ。

●おお、それは楽しみ。あなたはプロデュース業が多いけれど、自分で曲を書いたり、バンド活動をしたいという欲求はないんですか?

D:僕には裏で人を支えるほうが向いているんだよ。サポートして、目標実現に近づけてあげる立ち位置がね。自分が中心になって何かをやろうという欲求は、正直ないんだよね。

●でも、ラモーンズのハードコアなファンは、あなたとCJが一緒に仕事をしているのを知っているし、あなたがラモーンズにどう貢献してきたこともわかっているから、いろいろと期待しちゃうんですよね。

D:そういうコアなファンだからこそ、わかってくれているはずだよ。僕にとってラモーンズと一緒にいられること、共に働き、助け、友人であることがすべて。ダニエル・レイというソロアーティストとして存在するよりも、よっぽど名誉なことなんだから。

●ジョーイが去り、ジョニーが去った今、あなたなら何かできるって、未来を思い描いちゃうんですよ(笑)。

D:ソロアーティストであるためには、今とはまた異なるパーソナリティも必要になる。それにはあまり惹かれないんだ。何より、サポートすることそのものが好き。プレッシャーも少ないしね(笑)。



「ジョニーみたいに電車の中でギターを持って撮影だね」と嬉しそうでした。


●では、亡くなった3人との思い出について聞かせてください。まずはジョーイから。

D:毎日思うんだ。ジョーイがいなくて寂しいって。あまり多くを語るタイプではなかったけど、ユーモアのセンスのある人でね。彼と何かをやるというのは僕にとって特別なことだった。たとえば映画に行くなんていう何気ないことでも、ジョーイと一緒だと違ったものになる。彼自身の感性が研ぎ澄まされていたからなのか、ほかの人と行くと漠然と見てしまうような作品でも、ジョーイと一緒だと感じるものがあったし、彼なりの視点が面白くて。ジョーイと一緒にいることで、物事を多面的に見たり感じたり、はっと気づかされることって本当にたくさんあったんだ。コニーアイランドって知ってるかな? ニューヨークにあるアミューズメントパーク。観覧車なんてもう50回は乗ったと思うんだけど、僕の中のコニーアイランドでの最高の思い出といえば、ジョーイと行ったたった1回のことだったりするんだよ。

●ディー・ディーはどうでしたか?

D:ディー・ディーはなんていうか、いつも少年みたい。ものすごく正直で、何かを取り繕うようなところもなかった。大人になっても、子供みたいに歯に衣着せぬ鋭い指摘をしてくるところなんか、彼らしかったなぁ。ファニーでいてデンジャラス。そんな感じだね。

●もしジョーイではなく、ディー・ディーと映画を見に行ったら、どうなっていたでしょう?

D:ものすごく楽しくて仕方ない状態か、出入り禁止になるかのどちらかだね。どっちに転ぶのかわからないドキドキ感も含めてのイベントになったはず。いつ、どこにいてもそうだったから(笑)。

●(笑)。ではジョニーはどうでしょう?

D:ジョニー・ラモーン…彼はすべてを掌握する男だね。ナーバスな人ではあったけど、芯の部分は絶対にぶれないんだ。ハタから見ていて不安定なものを一切感じさせなかった。ジョニー以外の何者でもないって感じだね。

●私がジョニーとの交流を通じて感じたのは、彼自身がすごく自分をさらけ出す人だったということ。人は彼のことをよく傲慢だとか言うけれど、私が知っているジョニーは面倒見がよくて、弱音を吐いたりもする。あなたに対してもそうだったんではないですか?

D:うーん、そうでもないな(笑)。でも、正直な人ではあった。強がったりするようなところもなかったから、作業中も疑問に感じるようなときは「これでいいんだろうか?」って素直にぶつけてきてくれたし。かといって、弱い部分を見せてくれることはなかったけど(笑)。ラモーンズが解散してからは、ちょっとしたユルさが見えたりして、以前より付き合いやすくなったのはたしかだね。でも、本質的な部分において付き合いやすい人間ではない。でも、僕にはそこがよかった。なんていうかね、ジョニー・ラモーンには、100%リスペクトなんだよ。

●ありがとうございます。さて、気になるCJラモーンのアルバムですが、今後の展開はどうなっているんでしょうか。

D:アメリカに戻ったらすぐにレコーディングを始めるよ。CJが素晴らしい曲を書いたから、今から楽しみなんだ。

●アルバムが出来上がったら、ツアーに出たりするんですか?

D:もちろん出るよ! 南米、ヨーロッパ、そしてまた日本にね! アメリカは…ないな(笑)。

●これから加入するドラマーについてはもう決まっているんですか? できれば名前など教えてください。

D:僕も知らないんだよ。っていうか、これから探さないといけないんじゃないかな。僕たちはブラントのドラムが好きなんだけどねぇ(ブラントは今回の来日を最後にバンドを離れます)」

●じゃあ、これからドラマー探しですか?

D:そうなると思うよ。


<END>


構成:菊池陽子
通訳:栗原いずみ
撮影:取材中・sumie(スタッフ・すぅちゃん)
撮影:ライブ・yuki kuroyanagi


2010.02.18


テキスト及び写真 : 畔柳ユキ / Ramones Fan Club Japan ©RAMONES FAN CLUB JAPAN
ALL TEXT & Photos by ©yuki kuroyanagi & ©RAMONES FAN CLUB JAPAN

記事及び写真の無断転載を固くお断りいたします。

 





 



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